今月二度目の三連休という方も。ゆっくり楽しんでください。(哲




2011ソスN9ソスソス23ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 2392011

 デズニーに遊び小春の一と日かな

                           高浜年尾

のデズニーランドは本家本元。アメリカ、カリフォルニア州アナハイムにあり1955年に開園。年尾は1970年70歳のときにアメリカ旅行でここを訪れている。花鳥諷詠の俳人も遊園地を詠むんだな、70歳になっても遊園地に行くんだな、アメリカに行っても「小春」という季語を使うんだな、ディズニーと言わずデズニーと言ったんだな、そんなこんなも含めてこの俗調が持つ俳句の臭みにどこかやすらぎのようなものも感じる。日本の演歌やアメリカのカントリーウエスタンがどれも似たような歌詞やメロディーであることに安堵を感じるのと似ているような気がする。「一と日」も「かな」も諷詠的趣で対象とミスマッチな感があるがそこがまたなんともカワイイではないか。朝日文庫『高浜年尾・大野林火集』(1985)所収。(今井 聖)


September 2292011

 勉強の灯かと見て過ぐ秋黴雨

                           原 雅子

走台風の影響か、ここ数日雨が続いている。「秋黴雨」は「あきついり」曇りがちで小雨がじとじと降る梅雨のような長雨を言うが、俳句以外ではあまり出会わない言葉かもしれない。秋めいてくると夕暮れが短くなるが、雨の降る日はいっそう暗くなるのが早い。近所の家の一隅に電気がついている。そういえば元気よく外で遊んでいたあの子も受験の頃、早々と灯された部屋に思いをはせているのだろう。煌々と照らした塾に通うのが今風かもしれないが、昔は試験勉強や受験勉強は、孤独な作業だった。眠たい目をこすりながらいつまでも消えない同級生の勉強部屋の窓の灯が気になって仕方がなかった。遠い歳月の彼方に自分も点した「勉強の灯」。ちらっと見やった眼差しに暖かさが感じられる。『束の間』(2011)所収。(三宅やよい)


September 2192011

 秋の日の瀬多の橋ゆく日傘かな

                           鈴木三重吉

多は「瀬田」とも書く。いずれにせよこの橋は「唐橋」であり、琵琶湖へそそぐ瀬田川に架かっている橋としてよく知られている。「秋の日」といっても、日ざしがまだ夏を残していて強く感じられる。日焼けも気になるから、日傘をさしているのだろう。橋の上ではことさらに日ざしが強そうで気になるのかもしれない。瀬多の唐橋と言えば「近江八景」のうちであり、歌川広重が描いた「瀬多夕照」が思い出される。あの絵に描かれたスケールの大きな橋を、日傘をさして渡る姿は想像しただけでも晴れ晴れとする。掲句は想像ではなくて実景で詠まれたのかもしれない。「日傘」は夏の季語だが、この場合「季重なり」などと野暮は言わず、夏から秋への移り変わりの時季という設定であろう。ところで「瀬多の橋」で想起するのは、大岡信の傑作「地名論」という詩である。それは「瀬田の唐橋/雪駄のからかさ/東京は/いつも/曇り」とリズミカルに結ばれている。言うまでもなく「せたのからはし/せったのからかさ」の響きが意識されている。天候が変われば、「日傘」は「唐傘」にも変わる。木下夕爾の句に「秋の日や凭るべきものにわが孤独」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)




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