今井聖主宰「街」十五周年記念号発刊。おめでとうございます。(哲




2011ソスN9ソスソス30ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

September 3092011

 月下婦長病兵をうち泣きにけり

                           秋山牧車

の句には前書がある。「戦場における看護婦の献身には感銘せり。いま一婦長大いなる荷を背負い三、四十名の病兵を引率す。『あなたはそれでも帝国軍人ですか』と叫びて」。前書は具体的だが、この句だけでも意は尽くしている。看護婦が兵を「うち」、泣く。このリアルが胸を打つ。大本営から最前線に派遣された職業軍人としての述懐である。戦後、戦争責任追及の嵐が吹き、戦中は反戦の立場であったと証しするか否かが文学者としての決定的な踏絵となった。俳人も例外ではない。戦後になって戦中に作ったという反戦の句を発表する者、戦中に作った軍人への追悼句や日本軍への応援句を句集から削除する者。負けるのはわかっていたという者、終戦の詔勅を聞いてホッとしたという者、これらはみな処世の策とみることも出来よう。勝てないまでも負けないで欲しいと願ったと振り返った俳人を知っているが、これがぎりぎり正直なところではなかったか。病兵を叱咤して打つ婦長も兵もみな被害者だという図式はわかりやすい。では加害者は誰なのか、ひとり「軍部」にその責を負わせるのか。そんな問いかけは過去のみならず。今も未曾有の「人災」の総括が問われている。『みんな俳句が好きだった』(2007)所載。(今井 聖)


September 2992011

 片仮名でススキと書けばイタチ来て

                           金原まさ子

ーん。不思議な句だ。芒、薄、すすき、金色に吹かれるその姿を表す表記はいろいろ選べる。ススキと書くとどうしてイタチが来るのか。だいたい「どうして」って意味を問うこと自体野暮なのだろう。この句と出会って思い出すたび気になり、ずっと心の片隅に引っかかっている。確かに裾の開いた片仮名でススキと書いてみると、その隙間をつややかな尾を光らせてつつつつとイタチが走り抜けてゆきそうな気がする。「ススキと書けばイタチ来て」、のリズムも音の流れもステキだ。未だによい解釈は思い浮かばないけど、街で「スズキ」自動車の看板を見てもはっとしてしまう。きっと私はこの句をずっと忘れないだろう。どうしても解けない謎は謎のまま、まるごと愛し続けることが作者が感じた不思議と共鳴する唯一の方法かもしれない。『遊戯の家』(2010)所収。(三宅やよい)


September 2892011

 わが庭に何やらゆかし木の実採り

                           瀧口修造

外やあの瀧口修造も俳句を書いた。掲句の「木の実」とは、ドングリなどのたぐいの「木の実」ではなく、実際この場合は「オリーブの実」なのである。もちろん鑑賞する側は、「木の実」一般と解釈して差し支えないだろう。私も何回かお邪魔したことがあるけれど、瀟洒な瀧口邸の庭には枝をこんもりと広げた立派なオリーブの大樹があった。秋になると親しい舞踏家や美術家たちが集まって、稔ったたくさんの実を収穫し、それを手のかかる作業を通じて、塩漬けして瓶詰めにする。それを親しい人たちに配る、という作業が恒例になっていた。私もある年一瓶恵まれたことがある。ラベルには「Noah’s Olives」と手書きされていた。私はいただいた瓶が空になってからも大事に本棚に飾っていたのだが、いつかどこやらへ見えなくなってしまった。秋の一日、親しい人たちがわが庭で、楽しそうにオリーブ採取の作業をしている様子を、修造は静かに微笑を浮かべながら「ゆかし」と眺めていたに違いない。ワガ庭モ捨テタモノデハナイ。「何やらゆかし」は、芭蕉の「山路来て何やらゆかしすみれ草」を意識していることは言うまでもない。そこに修造独特の遊びと諧謔精神が感じられる。修造には、吉田一穂に対する弔句「うつくしき人ひとり去りぬ冬の鳥」がある。『余白に書くII』(1994)所収。(八木忠栄)




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