阪神来期監督に梨田昌孝氏濃厚。べつに文句はない。勝ってくれ。(哲




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October 18102011

 補陀落も奈落もあらむ虫の闇

                           根岸善雄

陀落(ふだらく)とは、観音が住むといわれるインドの南海岸にある八角形の山。この山の華樹は光明を放つとも、芳香を放つともいい、観音の浄土として崇拝されてきた。一方、奈落とは地獄である。掲句で使用されている「虫の闇」は、虫の音とともに、鳴き声を発している空間に注目している季語である。風の音や虫の音に秋のあわれを感じる寂寥の気持ちに加え、暗闇から響くものが命の限りの絶唱であることへの戦慄も含まれる。虫の声は高くなり低くなり、あるときはぴたりと止み、また堰を切ったように湧き返る。この息づく闇に、地獄と極楽を見てしまった作者も、感傷的になるより、ふと怖れを感じたのだと思う。先日、夜の上野公園を横切ったとき、耳を覆うほどの虫の声に包囲された。人間の気配にひるむことなく、近寄ればかえって力強く鳴き始めるものさえいたようだ。しかし、来週あたりには、同じ場所はただの暗闇となり、ひっそりと静まりかえっていることだろう。あれほどの声の主たちの骸はどこにも見当たらぬまま。〈星合の夜や海盤車(ひとで)らは眠れるか〉〈雪吊を解きし荒縄焚きにけり〉『光響』(2011)所収。(土肥あき子)


October 17102011

 十月の雨のぱらつく外野席

                           西原天気

球観戦だ。他の月の野球ではなくて、「十月」のそれである。つまり、ペナントレースの順位争いもおおかた決着がつき、作者はいわゆる消化試合を観ている。ゲームは盛り上がりに欠け、観客席の人もまばら。おまけに雨までがぱらぱらと降ってきた。なんともしょんぼりとした光景だが、野球ファンにとってはこの寂しさにもまた、捨て難い味がある。1975年10月、熱狂的な巨人ファンだった私は、後楽園球場で最終戦を観た。長嶋新監督率いるジャイアンツは首位の広島に30ゲーム近くも離されて、既に球団初の最下位が決まっていた。ウイークデーにして小雨のデーゲーム、観客は3000人もいなかったと思う。いっしょに行った友人と「きょう来ているのが本当の巨人ファンだよな」と言いながらも、やはりやる気の無い選手たちの試合ぶりはつまらなかった。集まった観客の期待はみな、試合後に長嶋がなんと挨拶するのかに集まっていて、試合後のグラウンドに監督コーチ以下選手たちが一列に並んだときに、その日はじめて拍手がわいたのだった。だが期待は見事に裏切られ、長嶋は一言も発せずにぺこりとお辞儀をしただけでさっさと引き揚げてしまったのである。雨の中に取り残されたファンは一瞬ぽかんとし、次には口々に怒号をあげていた。「長嶋、出て来い、何とか言え」。あれほどに空しい観戦はなかった。この句の作者は、具体的にはどんな空しさを覚えたのだろうか。『けむり』(2011)所収。(清水哲男)


October 16102011

 地と水と人をわかちて秋日澄む

                           飯田蛇笏

月11日の大震災を経験したのちに読んでみると、それまでとは違った感想を持ってしまう句があります。むろん、句そのものに違いはないわけで、あくまでも受け取り方の問題なのですが。本日の句も、単に大地と水がくっきりと分かれて見えると詠っているだけなのですが、どうしても陸地と海の境目のところに、思いは及んでしまいます。それはともかく、この句がすごいなと思えるのは、人を、地と水に並置しているところです。秋空の下、空気をどしどし押しのけるようにして歩いている人の姿が見えてくるようです。悩みとか感情とか屈託とか、そんなものはもともと大したものではなく、ここにこうしてあること自体が大切なことなのだと、あらためて教えてくれているようです。『日本大歳時記 秋』(1971・講談社) 所載。(松下育男)




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