リーグ優勝が無になるかもしれないCS。それも勝負事の面白さだ。(哲




2011ソスN11ソスソス2ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 02112011

 かまきりや霜石仏遠木立

                           長谷川伸

一月は霜月。霜は本格的な冬の前兆だが、言葉の響きはどこやらきれいな印象を与える。「露結びて霜とはなるなり。別物にあらず」(『八雲御抄』)と書かれたように、古くは、霜は露の凍ったものと考えられ、「霜が降る」と表現された。現在は通常、霜は「おりる」「置く」と表現される。掲句は霜のおりた野の石仏に、もう弱り切ったかまきりがしがみつくように、動かずにじっととまっている姿が見えてくる。あるいはもうそのまま死んでしまっているのかもしれない。背景遠くに、木立が寒々しく眺められる。十七文字のなかに並べられたかまきり、霜、石仏、木立、いずれも寒々とした冬景色の道具立てである。これからやってくる本格的な冬、それをむかえる厳しい光景が見えてくるようだ。一見ぶっきらぼうなようでいて、遠近の構成は計算されている。季語「霜」の傍題の数は「雪」に及ばないけれど、霜晴、深霜、朝霜、夕霜、強霜、霜の声、……その他たくさんある。「夕霜や湖畔の焚火金色に」(泉鏡花)「霜の墓抱き起されしとき見たり」(石田波郷)などの霜の句がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


November 01112011

 萩刈りて風の行方の定まらず

                           柚口 満

や芒などなびきやすいものの姿を見つめていると、風の通り道がはっきりと分りますねという句は多く見かけるが、掲句は刈ってしまった萩のおかげで風が迷っているとでもいう様子なのだ。たまたま風があるから穂がなびくのではなく、なびかせるのが面白くて風は通っていたのだと思わせる。たしかに渦を巻いたり、突風を吹かせたり、風には単なる気象現象というにはあまりに意図的でいたずらな横顔を持っている。ちなみに「風のいたずら」でGoogle検索してみると、なんとまぁ愉快で迷惑ないたずらの数々。個人的な思い出だと、成人式の日が強風で、長い振袖が風をはらみどうにも収拾がつかず、まるで蜻蛉のお化けのようになり果てたことを覚えている。そんないたずら者の風が、今日もまた萩野でひと暴れしてやろうと駆けつけたところ、あったはずの萩がすっかり刈られてなくなっていたのだ。がらんとした野原で、途方に暮れている風はしばらく右往左往したのち、また次の手を考えてどこかへと駆け抜けていくのだろう。〈サーカスの檻の列行く鰯雲〉〈寒林といふ鳥籠のなかにゐる〉『淡海』(2011)所収。(土肥あき子)


October 31102011

 菊の後大根の外更になし

                           松尾芭蕉

の季節は春の梅ではじまり、秋の菊で終わる。「菊」は「鞠」とも書き、この字は「窮」に通じていて、物事の究極、最後を意味している。つまり菊は「最後の花」というわけで、慈鎮和尚に「いとせめてうつろふ色のをしきかなきくより後の花しなければ」という歌がある。これを踏まえて、芭蕉は掲句を詠んだらしい。「そんなことはない。菊の花が終わった後にも、真っ白くて愛すべき大根があるではないか」と解釈できるのだが、よく考えるまでもなく、菊と大根を並べるということは、すなわち花と根とを比べていることになるので、いくらパロディとは言ってもかなりの無理がある。突飛すぎる。大根も花をつけるが、季節は春だから句にはそぐわない。誰かこのことを指摘していないかと調べてみたけれど、見当たらなかった。そこで私流の解釈をしておけば、この句は花と根を比較しているのではなくて、両者の味わいを比較したのだと思う。つまり「菊」は花を指すのではなく「味」を指している。要するに芭蕉は慈鎮和尚の歌の菊の花を「菊の味わい」と読み替えてパロディ化したわけで、この菊は「食用菊」なのだと思う。菊も美味いが、大根も負けず劣らずの美味さだよ、と。食用菊なら平安の昔からあったそうだから、理屈も通る。どうであろうか。(清水哲男)




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