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2011ソスN11ソスソス5ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 05112011

 夜學子がのぼり階段のこりをり

                           國弘賢治

しぶりに読みたくなって開いた『賢治句集』(1991)にあったこの句は昭和三十二年、亡くなる二年前、四十五歳の作。夜長というより、夜寒の感じがする句である。深夜の静けさの中、帰宅した夜学生が階段をのぼる足音が聞こえ、やがて扉の閉まる音がしてまた静かになる。足音が消えて元の静けさに戻ったのだが、さっきまで意識していなかった階段の存在が、作者の意識の闇の中に浮かび上がり闇は一層深くなる。眠れない夜の中にいて、作者はやがて消えていく自分を含めた人間の存在に思いをめぐらしていたのだろうか。一生病と共にありながら、俳句によって解放されたと自ら書き残している作者にとって、句作によって昇華されるものが確かにあったのだとあらためて思う。(今井肖子)


November 04112011

 二科展へゴムの木運びこまれをり

                           西原天気

覧会への絵の搬入搬出は多く詠まれるところ。この句は違う。どこにでもあるような、なんとなく展覧会の空間にも合うようなゴムの木が運び込まれているところが好きだ。二科展という語が秋の季語でなんとなく仕方なく季語を用いているようなところに共感する。だいたい「芸術の秋」というなんだかよくわからない理由で二科展が秋季に催されることになったか、或いは展覧会が結果的に多いから芸術の秋と呼ばれだしたか、どちらかよくわからないが、どちらにしても二科展が秋季にあらねばならない必然性は薄いことだろうにと思うのだ。作者はそんな「季語」を据えた。季節の本意を目的的に書くつもりはまったく無くても一句から季語を排除できないそんな「気弱」なところが好きだ。たとえば楸邨も草田男も誓子もその作風の方法的魅力の中に季語が重要な位置を占めているわけではないのに無季の作品はほとんどない。季語を捨てられない理由は三者三様だろうが、現実空間を描写することを是としているという点では共通しているからその点で季語が有効だという認識を持っていたことは間違いないだろう。ものを凝視するという素朴な「写生」から離れて、機智だのユーモアだの見立てだののインテリジェンスをふんだんに盛り込んでもやっぱり歳時記掲載の季節の言葉を用いるという折衷に、過渡期としての現代があるような気がする。『けむり』(2011)所収。(今井 聖)


November 03112011

 助手席の犬が舌出す文化の日

                           大木あまり

号待ちをしている車の窓から顔を出している犬と眼が合う。小さな室内犬は飼い主の膝に抱かれてきょろきょろしているが、大型犬などはわがもの顔で助手席にすわり、真面目な顔で外を眺めている。流れゆく景色を眺めながら犬は何を思っているのだろう。車の中が暑いのか、楽しいものを見つけたのか、犬が舌を出してハ―ハ―している。しかし下五に「文化の日」と続くと、批評性が加わり「文化だって、へー、ちゃんちゃらおかしいや」と犬がべろり舌を出して笑っているように思える。しかし助手席に座る犬を「お犬さま」に仕立てているのは人間達の一方的な可愛がりの結果。犬が欲求したわけでもない。ホントのところ犬は人間並みの扱いに閉口しているかもしれない。と、ソファに眠る我が犬を眺める文化の日である『星涼』(2010)所収。(三宅やよい)




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