原子力安全庁のHP作成に1億4000万円。無知につけ込む悪徳予算。(哲




2011N1110句(前日までの二句を含む)

November 10112011

 立冬のきのこ会議の白熱す

                           中谷仁美

冬をさかいに朝晩冷え込むようになってきた。この季節、椎茸、舞茸、シメジなど鍋に入れるきのこがとりわけおいしく感じられる。きのこ会議とは、林の中のきのこの正体をめぐって繰り広げられる議論なのか。ひょっとすると居酒屋のメニューを前にきのこをめぐってたわいもない話しが盛り上がっているだけかもしれぬ。人間主体でなくとも、ひとの踏み込まぬ林の奥で、栗茸や楢茸や舞茸が、ああ、もう本格的な冬が近い。この世から消えてしまう前に来年の場所取りに決着をつけなければと、熱心に会議している童話的世界を想像しても楽しい。実り多き秋、紅葉の秋が過ぎると山もめっきり寂しくなる。今のうちに多種多様なきのこを楽しむことにしよう。『どすこい』(2008)所収。(三宅やよい)


November 09112011

 そこより闇冬のはえふと止まる

                           寺山修司

節はずれ、冬のハエのあゆみはかったるそうでのろい。ハエがそこからはじまる闇を感じたから、あゆみを止めたわけではあるまい。明るい場所ならばうるさく飛びまわるハエも、暗闇を前にして本能的に身構えてあゆみをはたと止めたのかもしれない。修司の眼にはそんなふうに映ったのだろう。止まったのはハエだが、修司の心も闇とハエを見てなぜか一瞬ためらい、足を止めたような状態になっているのだろう。闇には、冬の何ものか厳しいものがぎっしり忍びこんで蠢きながら、侵入してくるものを待ち構えているのかもしれない。「そこより闇」という冬の闇の入口が、何やら不吉なものとして目の前にある。六・五・五の破調がアンバランスな効果を生み出している。飯田龍太は修司の俳句について「未完の俳人として生を了えたが、生得恵まれた詩情詩魂は稀有のものがあったと思う」と書いている。短歌とちがって、俳句のほうはやはり「未完」であったと私も思う。よく知られた冬の句に「かくれんぼ三つかぞえて冬となる」がある。青森の俳誌「暖鳥」(1951〜1955)に発表され、未刊句集『続・わが高校時代の犯罪』として、『寺山修司コレクション1』(1992)に収められた。(八木忠栄)


November 08112011

 冬うらら足し算だけの練習帳

                           長谷川槙子

人になれば目を閉じても書ける数字も、小さい頃は4も8も難しかった。反対向きやら横になってしまうものやら、今となってはふざけているとしか思えない不思議な間違いを繰り返す。私は左効きの矯正のせいか、鏡文字を書いてずいぶん親を悩ませたようだ。「また反対」と言われ続けると、混乱してなにがどう反対なのかがわからなくなってくる。それでもいつのまにか数字もひらがなも間違わなくなったのは、単に正しく書くことに慣れただけのような気がする。掲句ではきっと習いたての大きな数字が不格好に並んでいるのだろう。足し算は小学校一年生の算数の始まりである。例題を見てみると「お母さんからみかんを2つもらいました。お兄さんからも3つもらいました」。そうそう、足し算はいつでももらってばかり。引かれたり、掛けたり、よもや割ることまで控えていようとは思いもよらない時代が存在していたことを、日だまりのあたたかさで思い出している。『槙』(2011)所収。(土肥あき子)




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