立ち飲みデー。1111。人が立ち飲みしている様子なんだって。(哲




2011ソスN11ソスソス11ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 11112011

 旅客機閉す秋風のアラブ服が最後

                           飯島晴子

の句すでに十年前に清水哲男さんがこの欄で鑑賞してらして、僕はその文章を読みながら当時からこの句の風景に別のことを感じたのだった。そしてそのことをどうしても言いたくなった。アラブ服が最後に出てきてタラップを降りてゆくという清水さんの鑑賞は、登場してから視界の中にずっと見えているアラブ人の動きやら服装やらが印象としてこちら側に残って存在感があり説得力がある。それとは別にもうひとつ僕が感じた風景はアラブ服が最後に旅客機の中に消える図だ。僕はハイジャックを思ったのだった。「閉す」という語感から強い意図を感じる。この句所収の句集の刊行年1972という年もそのことを思わせた。どこからどこへのハイジャックか。日本からでないかぎり「秋風」はおかしいというご意見もあろう。しかし文化大革命然り、反イスラエル、反アメリカの闘争は国際的に見て全て劣勢に立たされてきた。「秋風」がその象徴として用いられてもいいではないか。全共闘世代の末端にいた僕の世代はまたテロ多き時代に生きた世代でもあった。この句からすぐにハイジャックを思った自分に苦笑しつつ、思った自分を否定するわけにはいかない。この句には晴子さんの自解があるらしい。僕は読んでいないし読みたくもない。自解をするのは自由だが、自解にとらわれるほど馬鹿げたことはない。清水さんの鑑賞も僕の鑑賞もこの作品にとっての真実だ。『蕨手』(1972)所収。(今井 聖)


November 10112011

 立冬のきのこ会議の白熱す

                           中谷仁美

冬をさかいに朝晩冷え込むようになってきた。この季節、椎茸、舞茸、シメジなど鍋に入れるきのこがとりわけおいしく感じられる。きのこ会議とは、林の中のきのこの正体をめぐって繰り広げられる議論なのか。ひょっとすると居酒屋のメニューを前にきのこをめぐってたわいもない話しが盛り上がっているだけかもしれぬ。人間主体でなくとも、ひとの踏み込まぬ林の奥で、栗茸や楢茸や舞茸が、ああ、もう本格的な冬が近い。この世から消えてしまう前に来年の場所取りに決着をつけなければと、熱心に会議している童話的世界を想像しても楽しい。実り多き秋、紅葉の秋が過ぎると山もめっきり寂しくなる。今のうちに多種多様なきのこを楽しむことにしよう。『どすこい』(2008)所収。(三宅やよい)


November 09112011

 そこより闇冬のはえふと止まる

                           寺山修司

節はずれ、冬のハエのあゆみはかったるそうでのろい。ハエがそこからはじまる闇を感じたから、あゆみを止めたわけではあるまい。明るい場所ならばうるさく飛びまわるハエも、暗闇を前にして本能的に身構えてあゆみをはたと止めたのかもしれない。修司の眼にはそんなふうに映ったのだろう。止まったのはハエだが、修司の心も闇とハエを見てなぜか一瞬ためらい、足を止めたような状態になっているのだろう。闇には、冬の何ものか厳しいものがぎっしり忍びこんで蠢きながら、侵入してくるものを待ち構えているのかもしれない。「そこより闇」という冬の闇の入口が、何やら不吉なものとして目の前にある。六・五・五の破調がアンバランスな効果を生み出している。飯田龍太は修司の俳句について「未完の俳人として生を了えたが、生得恵まれた詩情詩魂は稀有のものがあったと思う」と書いている。短歌とちがって、俳句のほうはやはり「未完」であったと私も思う。よく知られた冬の句に「かくれんぼ三つかぞえて冬となる」がある。青森の俳誌「暖鳥」(1951〜1955)に発表され、未刊句集『続・わが高校時代の犯罪』として、『寺山修司コレクション1』(1992)に収められた。(八木忠栄)




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