野球シーズン終了。次はアメフトだが、テレビ中継がないからなあ。(哲




2011ソスN11ソスソス21ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

November 21112011

 冬青空毎日遠くへ行く仕事

                           興梠 隆

く晴れた冬の朝、出勤時を詠んだ句だ。いつもと同じ遠い職場に出かけてゆく。そのまんま、である。それがどうしたの、である。しかし、そこまでしか読めない読者は不幸だ。この句の力は、そのまんまの中に、一種の隠し味を秘めているところにある。「遠くへ」は単なる距離感を示しているだけではなくて、同時に時間性を持ち合わせており、それが無理なく読者に伝えられている。寒いけれども、空は晴朗だ。いつものようにその空の下に出て行くときに、作者はふっと来し方行方のことを思っている。毎日さしたる意識もせずに遠い仕事に出かけてきたこれまでの生活というもの、そしてこれからもつづいていくであろう人生の道筋。そういう時間性、歴史性が一瞬明滅して、冬空に消えてゆく感慨を、「遠くへ」の語に語らせているというわけだ。そしてここには、格別な希望もなければ悲観もない。ただそのように自分が生きていることへの確認があるだけである。こういう気持ちは、ときに誰にでも湧いてくるだろう。ただ、誰も書きとめてこなかっただけである。作者名の読みは「こうろき・たかし」。『背番号』(2011)所収。(清水哲男)


November 20112011

 弱き身の冬服の肩とがりたる

                           星野立子

んとなく読み過ごしてしまいそうになりますが、本日の句に学ぶことは多いと思います。まず、人を見る目のあたたかさと柔らかさに驚いてしまいます。読めば読むほど、恐ろしいほどに眼差しの深さを感じるのです。「弱き身」とは、ことさら身体の弱い人のことを指しているのではないのでしょう。だれでもがその根っこのところでは、びくびくと生きているのです。その弱い精神を包み込むようにして着た服は、鎧のように肩がとがっているのかもしれません。すぐれた句を詠む、というよりも、すぐれた眼差しを持つことが、まずは目指されなければならないことなのだと、教えてくれているようです。『日本大歳時記 冬』(1971・講談社) 所載。(松下育男)


November 19112011

 とほき日の葱の一句の底びかり

                           黒田杏子

五の、底びかり、に惹かれ、まずその葱の一句はどんな句なのだろう、と思った。それから、以前葱農家の方からいただいた箱詰めのそれはそれはりっぱな葱を思い出した。真っ直ぐに真っ白に整然と並んだ太い葱たちは、まな板にのせても切るのがためらわれるほど美しかったのだ。その葱の、大げさでなく神々しいほどの輝きを思い浮かべながら検索してみると〈白葱のひかりの棒をいま刻む〉(黒田杏子)とある。ひかりの棒とはまさにあの時の葱であり、いま刻む、という言葉にはかすかな逡巡が感じられ共感する。遠き日の一句はこの句なのだろうか、いずれにしても、句のことを句に仕立てる、という難しさを越えて光る二つの葱句である。『日光月光』(2010)所収。(今井肖子)




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