極月ですね。だんだん慌ただしくなりますが、風邪を引かないよう。(哲




2011ソスN12ソスソス1ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 01122011

 冬を明るく弁当の蓋開けて

                           興梠 隆

弁でも家で作ってもらったお弁当でも、何が入っているんだろう、期待を持って蓋を開ける瞬間は楽しい。私事になるが、むかし家の事情で、おそまつな弁当しか持っていけない時期があり、友達の前で弁当の蓋をとるのが嫌だった。友人たちは母親の心づくしの彩り鮮やかなおかずに加え小さなタッパ―に食後のフル―ツまで持参しているのに、私のお弁当ときたら目刺だの煮しめた大根だの佃煮だの、やたら茶色っぽいものだったから。と、言ってもそんな弁当格差は人と比べるから出てくるわけで、地味なお弁当であってもお昼休みに「さぁ、食べよう」と、蓋を開ける心のはずみは失われることはない。掲句では弁当を開けるささやかな行為と喜びが「冬を明るく」と空間的広がりに結び付いてゆくのが素晴らしい。倒置の効果が十分に生かされた一句である。『背番号』(2011)所収。(三宅やよい)


November 30112011

 昼火事に人走りゆく冬田かな

                           佐藤紅緑

間の火事にくらべて昼火事は、赤々と炎があがるという派手さは少ないけれど、おそろしく噴きあがる煙が一種独特な緊張感を喚起する。風景も人の動きもはっきりと目に見えるからだろうか。そしてなぜか火事だというと、警報に誘われるように人はどこからか遠巻きに物見高く集まってくる。不謹慎な言い方になるけれど、火事は冬か春先が似合う。火には寒気? 真夏の暑い盛りの火事はだらしないようで、私にはピンとこない。冬の田んぼにはもう水はないし、刈ったあとの稲株も枯れて腐ってしまっている。「スワ、火事だ!」というので、干あがった田の面か畔をバラバラと駆け出してゆく野次馬どももいよう。私にも昼火事の野次馬になったことが一度ならずあるが、妙に気持ちが昂揚するものだ。高校に入学して最初の授業中に起きた、校舎のすぐ隣にある大きなマッチ工場の火事のショックは忘れがたい。上級生たちは消火の手伝いに走ったが、とんでもない学校に来てしまったと、そのとき真剣に考えたっけ。冬田の句には鴉とか雨の取り合わせが目立つけれど、昼火事と冬田の取り合わせは鮮やかなダイナミズムを生み出している。富安風生に「家康公逃げ廻りたる冬田打つ」という傑作がある。平井照敏編『新歳時記・冬』(1996)所収。(八木忠栄)


November 29112011

 冬麗や象の歩みは雲に似る

                           大橋俊彦

に象のかたちを見てとることはあっても、地上最重量の象を見て、雲と似ているなど誰が思いつくだろう。とはいえ、言われて動物園などで目の当たりにしても象の歩みは、どしんどしんと地を響かせるようなものではなく、対極のひっそりした趣きさえたたえている。これは側対歩という同じ側の足を踏み出し、前足のあったところにきれいに後ろ足が重なるという歩き方のためと、足底に柔らかいパッド状に脂肪が付いていることによるのだというが、象のもつ穏やかで優しげな雰囲気もひと役買っているように思う。以前、タイで象の背に乗ったという友人が「思いのほか揺れた」と言っていた。もしかしたら、雲もまた乗ってみれば思いのほか揺れるものなのかもしれない、などと冬の青空に浮かぶ雲を眺めている。〈梟の視界の中を出入りせり〉〈冬至湯の主役にゆず子柚太郎〉『深呼吸』(2011)所収。(土肥あき子)




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