午後、TFMで年末番組収録。これで歳末気分が盛り上がるはず。(哲




2011ソスN12ソスソス15ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 15122011

 雪晴の額にもうひとつのまなこ

                           しなだしん

読んだ手塚治虫のマンガ『三つ目がとおる』を思い出した。普段はぼんやりして泣き虫、額に大きなばんそうこうを貼った主人公がばりっとばんそうこうをはがしてもう一つの目が出現するや、不思議な魔力を発揮する話だった。どんよりと雲が垂れこめて降り続いた雪がやむと青く晴れ渡った天気になる。真っ白な雪に覆われた景色のただ中にいると普段は見えないものが遠くまで見通せるような気持ちになる。目はもともと脳の一部が変質したものという説があるが、視覚的な景色をとらえる目とは異質なものを感知する目が額にあるのかもしれない。「もうひとつのまなこ」は雪晴の冷たく透き通った空気を額に感知しての比喩的表現だろうが、そんな日には前髪でかくされた眼が現れる非現実も違和感なく受け取れる。『隼の胸』(2011)所収。(三宅やよい)


December 14122011

 やがて入り来る四五人や年忘

                           久保田万太郎

まさに忘年会まっさかり。「忘年会」とすっぱり言ってしまうより、「年忘(としわすれ)」のほうが情緒がある。もちろん「望年」という言い方も流布している。今年のような年は、誰にとっても忘れようにも忘れられない年だったから、むしろ新しい年の到来に望みを託し、希望のもてる年であるように祈念するという意味で「望年」のほうがふさわしいように思われる。当方は昨夜、ある「大望年会」に参加して、とても楽しかった。暮はどちら様も何かと忙しい。けれども忘年会を通過しないと一年が終わらない、義理が立たない等々、仕事で定刻に遅れてしまっても、何とか駆けつけたいというのが人情。なかには二次会か三次会からでも参加という義理がたい(?)御仁も。「やあ、どうもどうも」とか何とか言いながら、三々五々駆けつけてくるのだろう。そのたびに酒席は揺れ、陽気な声があがるという寸法。そんなにぎやかな宴の模様が伝わってくる句である。『日本歳時記』には「年忘とて、父母兄弟親戚を饗することあり。これ一とせの間、事なく過ぎしことを祝ふ意なるべし」とある。本来はそうだったのだろうが、現在はその意味合いがだいぶ変わってきたことになる。万太郎の年忘の句は他に「拭きこみし柱の艶や年忘」がある。几董には「わかき人に交りてうれし年忘」という、今日に心境が通用する句がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


December 13122011

 死ににゆく木偶の髪結ふ雪催

                           渡 たみ

偶とは、人形浄瑠璃で使用する木彫りの操り人形のことである。動く人形を見世物としたのは平安時代より見られ、時代とともに目や口、五指が動くからくりによって、より人間に近いなめらかな動きを可能にした。農村各地まであまねく小屋が隆盛し、江戸中期には歌舞伎を圧倒するほどの人気を得たという。以前見た木偶人形は20条以上の糸に操ることよって人間の動作を再現していた。それは人間の骨や筋肉を代行しているかのような緻密さである。掲句では、今は単なる人形の頭であるものが、舞台に出れば嘆き悲しむ人そのものとなって、死ぬ運命が待っている。あれほど繊細な動きをするものに魂が入らないわけがない。あまりに人間らしく作られた人形たちが、なぜか不憫に思えて仕方がないのだ。『安宅』(2008)所収。(土肥あき子)




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