午後、余白忘年句会。兼題は「海鼠」と「狂」。うーむ、難題だ。(哲




2011ソスN12ソスソス17ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 17122011

 短日のどの折鶴もよく燃える

                           西原天気

れにしてもよく燃えるな、という感じだろうか。千羽鶴を火にくべる背景はいずれにしても哀しいものと思われるが、目の前の火の勢いという現実に、一瞬気をとられたような印象を持った。燃えさかる炎をじっと見ていると、心が昂ぶることも、逆に心が鎮まってくることもあるように思う。そんな作者に、短日の夕日があかあかとさしている。あと一週間足らずで冬至、日の短さをいよいよ実感する頃合となり、なにかと気ぜわしくもある。冬の日差しは遠くて弱いが、日の短さも冬至が底、と思えば少し励まされるような気もする。『けむり』(2011)所収。(今井肖子)


December 16122011

 数へ日やレジ打つときの唇うごく

                           小原啄葉

じ作者に「数へ日や茶筒のうへに燐寸箱」がある。そこに見えたものを見えたように。そこに在るものを在るように。これが「写生」という方法の核心であると僕などは理解している。しかしそこに別の要件を付加する考え方がある。いわく季題の本意や俳句的情趣。レジ打つときの唇うごくを詩ならしめているのは数へ日のはたらきがあるからだという人もいるだろう。年末の慌しいスーパーマーケットの様子が背景にあるから唇がうごくのだと。そうかなあ。それこそが師走のマーケットらしさを出すわざとらしい演出というふうにこの句を解釈することにならないか。一句の内容に関してその季題が唯一絶対か否かという見方で判断するとそういう解釈になる。唇がうごくのはレジを打つ個人の集中力や個人的な癖と大きくかかわっていると思えばこの数へ日は「絶対」ではなくなる。季語が絶対ではないと判断することがこの句の価値を貶めることになるのか。僕はそうは思わない。数へ日でも悪くはないが他の季節感でもいいかもしれないと思うのは、下句の瞬間の把握が人間の普遍的な在りように触れているからだ。後者の句も同じ。『小原啄葉季題別全句集』(2011)所収。(今井 聖)


December 15122011

 雪晴の額にもうひとつのまなこ

                           しなだしん

読んだ手塚治虫のマンガ『三つ目がとおる』を思い出した。普段はぼんやりして泣き虫、額に大きなばんそうこうを貼った主人公がばりっとばんそうこうをはがしてもう一つの目が出現するや、不思議な魔力を発揮する話だった。どんよりと雲が垂れこめて降り続いた雪がやむと青く晴れ渡った天気になる。真っ白な雪に覆われた景色のただ中にいると普段は見えないものが遠くまで見通せるような気持ちになる。目はもともと脳の一部が変質したものという説があるが、視覚的な景色をとらえる目とは異質なものを感知する目が額にあるのかもしれない。「もうひとつのまなこ」は雪晴の冷たく透き通った空気を額に感知しての比喩的表現だろうが、そんな日には前髪でかくされた眼が現れる非現実も違和感なく受け取れる。『隼の胸』(2011)所収。(三宅やよい)




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