有馬記念がめぐってくるたびに競馬の不勉強を反省。来年も多分。(哲




2011ソスN12ソスソス25ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 25122011

 クリスマス昔煙突多かりし

                           島村 正

の句を読んで、「ああそうか、サンタクロースは煙突から入ってくるのだったな」と、思い出します。クリスマスそのものを描こうとしているわけでもなく、煙突について書こうとしているわけでもありません。ただ単に、二つの単語を置くことによって、サンタクロースの太った姿をまざまざと思い起こさせてくれます。書きたいことに焦点を当て過ぎない。表現とは決して、これ見よがしであってはいけないのだと思うわけです。ところで、12月25日とは、当たり前かもしれませんが、テレビやラジオからクリスマスソングが流れるその年最後の日なのだなと、思うのです。山下達郎もWHAM!も、また一年間大切に、しまわれてしまう日であるわけです。『角川俳句大歳時記 冬』(角川書店・2006)所載。(松下育男)


December 24122011

 初雪やリボン逃げ出すかたちして

                           野口る理

が来そうな空の色や空気の匂い、さっきまでとは違う底冷え感には、なんとなくわくわくさせられる。初雪が最初で最後の雪、ということも多い東京にいるからそんな悠長なことを言っていられるのかもしれないが、この句の初雪も、そんな都会の初雪だろう。あ、雪、と見上げているうちに、街のクリスマスプレゼントを包んでいるリボンがするするとほどけて空へ空へ。舞い落ちる淡く白い雪と舞い上がる色とりどりのリボン、たくさんの人がただそれを見ている映像が浮かぶ、渋谷のスクランブル交差点あたり。いつでも逃げだせるリボン、明日は丁寧にほどかれしまわれて、次のチャンスを待つことになるのだろうか。『俳コレ』(2011)所載。(今井肖子)


December 23122011

 いろいろの死に方思ふ冬木中

                           福田甲子雄

年大切な人を亡くした。20歳も上の人生の先達だ。彼とはよく「死」についての話をした。「父母が死ぬとこんどは自分が死顔を見られる番だという気になる」「何かを遺すなんていうけど死んでゆく側には何の関係もない」「平知盛は見るべきほどのことは見つなんて言ったけど俺には無縁の心境だな。できれば50年後の世界を見てみたい」そして彼は死んで棺に入り僕らに死顔を見せた。交通事故や病気はいつも意識して用心していればある程度避けることが出来る。死だけはそうはいかない。意識していてもしなくても必ずやってくる。死ぬんだったらどんな死に方がいいかなんて話は誰でも一度や二度はしたことがあるだろう。そういう意味ではこの句は深刻な句ではない。日常のふとした思いに過ぎない。そしてこう書いた作者もすでに故人になられたということがどこか不思議な感じがする。うまく言えないけど。『白根山麓』(1982)所収。(今井 聖)




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