あと二日、押し詰まってきましたね。風邪など引かないように。(哲




2011ソスN12ソスソス30ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

December 30122011

 お積りの酌をしづかに年忘

                           本井 英

積りという言葉を初めて知った。酒席でその酌限りでおしまいにすることとある。忘年会で酒を飲んでいる。これでおしまいにしようと最後の盃を口に運ぶ。日本酒、日本男子、和装の風景だ。こういうのを品格とかマナーというのだろう。なんでも口に入れればいいという少年期、青年期を過ごした身には眩しい風景だ。僕の父は息子にほんとうの品格というのはバーバリズムを一度通ったところにある。英国では血みどろのバイキングを経てジェントルマンが生れたように。と薀蓄を述べたが、息子はついに野蛮な豚児のまま還暦を迎えた。酒の飲み方も箸の持ち方もコース料理のテーブルに置かれたナイフとフォークをどちらから手に取るかさえいまだにわからない。「俳句年鑑」(2012)所載。(今井 聖)


December 29122011

 悲しみはつながっているカーブする

                           徳永政二

011年も終わりに近づいている。自分が生きてきた中で今年は今までと違う一年だったと思う。3月11日の東日本大震災の津波と原発事故。私は現地へ行ったわけでもなく、被災した人たちから直接話を聞いたわけでもないが、深く心に突き刺さった出来事だった。いや「だった」と過去形ではなくそれは今も続いている。一度起こったことは片付くなんてことはない、それは形を変えていつまでも続くのだ、と言ったのは夏目漱石の『道草』の主人公だったと思うが、そうした現実から滲みだしてくる悲しみが人の心を伝わって双曲線を描きながら自分に帰ってくる。それが言葉になって表現できるようになるのはいつだろうか。川柳は俳句にはない直接性があり、時折ダイレクトな言葉の手ごたえを感じたいときには川柳を読む。いかようにも読める句かもしれないが、わたしには今年を終るにあたって一番心に響く句であった。この句が収録されている句集は沢山の写真と組み合わされて構成されているが、この句に添えられた写真もいい。灰色の空に突き出た太い帆先に一人たたずむ男が遥か遠方を見ている、その孤独な姿がこの句と実によく響き合っている。『カーブ』(2011)所収。(三宅やよい)


December 28122011

 てっさてっちり年を忘れる雑炊や

                           阿部恭久

の鍋料理は各種あって、それぞれの味わいがある。鍋を囲んでの団欒に寒さも吹っ飛んでしまう。特に冬が旬のアンコウやカモもいいけれど、やはりフグが一番か。フグで年忘れとは豪儀なものだ。「てつ」は関西では「フグ」を意味するから、「てっさ」は「フグ刺」。「てっちり」は言うまでもなく「ちり鍋」つまり「フグ鍋」。「てつ」は「鉄砲」で、毒に当たれば死ぬということ。今はフグを食べる誰もが「鉄砲」も「毒」も本気で意識はしないだろうが、昔は美味と毒とが隣り合っていてスリリングではあれ、とても「年を忘れる」どころではなかったかもしれない。フグは「少々しびれるくらいでないとアイソがない」とうそぶく御仁もたまにいらっしゃる。 今冬、毒を除去しないフグを売って営業停止になった上野の大手魚屋さんがあった。落語の「らくだ」になってしまってはたまらない。もちろん、今でも油断はできない。掲句は刺身から雑炊に到るフグのフルコースで年を忘れるというわけだから、来年はきっといいことがあるでしょう。恭久の「食ふ輩」十句には「蕎麦で越し餅を食ひけり詣でけり」「大寒や但馬牛来たり食ひにけり」など食欲旺盛な句がならぶ。「生き事」7号(2011)所載。(八木忠栄)




『旅』や『風』などのキーワードからも検索できます