December 312011
極月や父を送るに見積書
太田うさぎ
先週に続いて『俳コレ』(2011)よりの一句。同じ作者で〈父既に海水パンツ穿く朝餉〉〈ぐんぐんと母のクリームソーダ減る〉とあり、いいなあこのご両親というか親子関係、などと思いながら拝読していたので、この一句は寂しい。近親者を送ったことがある人ならおそらく皆経験したであろう感情が、きっちり俳句になっている。事務的なことをこなしていると、気が紛れたりだんだん実感がわいたりするけれど、波のように間欠的に押し寄せてくる感情は、悲しいのか寂しいのかどこか腹立たしいのか、なんだかうまく言えない。そこをまさに言い得ているのだろう。極月も最後の一日、怒濤の一年がとりあえず終わろうとしている。よい年というのがどんな年なのかわからないけれどやはり、来年はよい年になりますように、と願わずにはいられない。(今井肖子)
April 122012
エリックのばかばかばかと桜降る
太田うさぎ
意味もなく面白い、と俳句を表する言葉があるけど、この句はナンセンスでリズムがよくて、可愛くて面白い。東京へ来て「ばか」という言葉に人を見下す視線を感じていた。関西弁で「あほやなぁ」と言われても「ほんと、あほやね」と軽く返せるのに東京言葉で「ばか」と言われるとその冷たさにしばし落ち込む。そんな言葉も「ばかばかばか」と三連発で続けると、女の子が小さなこぶしを振り上げて気のきかない恋人の背中なんかをたたいているようでチャーミングに思える。それに加え「桜降る」なのだから「ばかばかばか」が桜の花びらの舞い散る擬音語のようにも思える。この名前がよくある男名だと妙に現実臭くなるが、「エリック」と嘘っぽい名前に言葉のモードを飛ばしたことでマンガチックな雰囲気を醸し出している。独特の軽みを持つこの作者の句は楽しい。「時速百キロつぎつぎと山笑う」「春深し立てば畳につんのめり」『俳コレ』(2011)所載。(三宅やよい)
November 202012
二の酉を紅絹一枚や蛇をんな
太田うさぎ
今日は二の酉。一年の無事に感謝し、来る年の幸を願うという。関東は酉の市のおとりさま、関西はえびす講のおいべっさんが馴染みだが、どちらも年末に向かっていることを実感するにぎやかな行事である。祭りや縁日を巡業する見世物小屋は、全盛期には全国で300軒にものぼったというが、現在は1軒のみという。仮設の小屋での摩訶不思議な世界は、テレビなどが普及する以前の大衆娯楽として幅広く受け入れられていた。以前、鬼子母神にも見世物小屋が掛かったことがある。小心者のわたしは結局入れなかったが、流れてくる口上と顔見せでじゅうぶん足がすくんだ。紅絹の長襦袢でしなしなと揺れるその人を「好きで食べるのか、病で食べるのか、人として人と交わることができないのか」と紹介する。蛇女は決して声を出さない。それは生身の人間であることを拒絶しているように。「雷魚」(2012年4月・90号)所載。(土肥あき子)
February 112016
恋猫に夜汽車の匂ひありにけり
太田うさぎ
裏の路地で猫が悩ましげな声で鳴くシーズンになって来た。今や家の中だけで外に出さずに飼われる猫が大半で、悩ましげな声に誘われてするりと家を抜け出し何食わぬ顔で戻ってくる猫は少なくなっているだろう。掲句の猫はきっとそんな自由奔放な猫で、まだ寒い戸外から帰ってきて主人の膝に冷えた身体を丸めたのだろう。抱き上げて顔を寄せればひんやりと外気の匂いがする。外から帰ってきた恋猫に「夜汽車」のイメージをかぶせたことで、本能に従い闇を疾走しつつも主人の膝へ帰ってくる猫が健気に思える。遠い旅から戻ってきたのだ。『俳コレ』(2011)所載。(三宅やよい)
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