j句

January 0112012

 元日の玄関にある笑ひ声

                           塩尻青笳

が明けました。昨年は特別な年でした。日本の歴史の中で、大きな意味をもった年でありました。それでも年は明けました。2012年、もう特別でなくてもいい。当たり前の時間が流れて、当たり前に水道からきれいな水が出て、当たり前に家族と夕飯を食べられる年であってほしいと、願わずにはいられません。本日の句、読んでいるだけでホッとした気持ちになります。玄関にある笑い声。年始の挨拶に来た友人や親せきとの笑い声でしょうか。軽い冗談でも言いあっているのでしょうか。気の置けない間柄なのでしょう。お互いに幸せな一年でありますようにと、笑い声の間には、深い思いが包み込まれているのです。『日本大歳時記 新年』(講談社・1981)所載。(松下育男)


January 0812012

 新年会すし屋の細き階のぼる

                           筒井昭寿

年、外資系の会社に勤めていた私にとっては、通勤した初日から年度末決算に追われて残業となり、新年気分などはすぐに吹き飛んでしまいます。それでも、「新年会」という理由が付けば、みんなで帰りに一杯やろうかという気分も出てきます。ちょっとした区切り目にはなるし、ささやかに生きて行く勇気も、酔いとともに多少はみなぎってきます。今日の句、読んでいるだけで、情景が目にまざまざと浮かんできます。小さなすし屋の、隅に様々な物が積んである狭い階段を、よろけながらのぼってゆきます。階下で用をたした後のことなのでしょうか。ふすまの向こうには、聴きなれた同僚たちの愉快な声が聞こえてきます。あたたかなざわめきの中へ、今年も再び入ってゆけることの喜びを感じながら。『角川俳句大歳時記 新年』(2006・角川書店)所載。(松下育男)


January 1512012

 冬雲は静に移り街の音

                           高浜年尾

があって、昨年の暮れに2週間ほどパリに滞在していました。緯度が高く、さぞ寒いだろうと思って、完璧な防寒をして向かいました。しかし、行ってみればさほど寒くはなく、あたたかいと言ってもいいような日もありました。その2週間、ほとんどの日が朝から厚い雲に覆われ、青空を仰ぐことが出来たのはたったの数日でした。日本に帰ってまず感じたのは、「なんと明るく日の降り注いでいる冬だろう」ということでした。ですから、本日の句を読んだ時に頭に浮かんだのは、パリで過ごした日々でした。何百年も建ち続けている、胸苦しくなるほどに彫りもので飾られた街の上を、うっとりと見下ろすように雲が動いてゆく。空の「静」と、地上の「音」の対比が、冬の中に鮮やかに並んでいます。視野の大きな、読んでいると自然に、伸びやかな心持になります。『日本大歳時記 冬』(講談社・1981)所載。(松下育男)


January 2212012

 春待つや空美しき国に来て

                           佐藤紅緑

年の冬は実に寒く感じられます。出勤時には、コートのボタンを首までしっかりとめて、マフラーをし、手袋をし、さらに耳当てまでして、勢いをつけて家を出ています。昨年から単身赴任で住み始めた土地は、間違いなく横浜とは空気の硬さが違うように感じられます。本日の句。作者の名前を見れば、佐藤愛子の『血脈』という小説の中に描かれた紅緑の姿を思い出さずにはいられません。「 佐藤家の荒ぶる血」は、明らかにフツウの人よりも激しく、感受性の強さも尋常ではなかったのでしょう。しかし、句を読んでみれば思いのほか当たり前の感覚で出来ており、特段な工夫がなされているわけではありません。旅先で詠んだ句なのでしょうか。どこの国を指しているのか、明確にしていなことが、むしろ工夫と言えるのかもしれません。『日本大歳時記 冬』(講談社・1981)所載。(松下育男)


January 2912012

 分針は太き泪となる日暮

                           守谷茂泰

しかに分針というのは、秒針や短針よりも太くできています。つまりそれだけ人が見やすいようにしてあるということです。よほどのことがないかぎり、秒針を見る必要などありませんし、また今が何時かはたいてい把握していますから、短針を見る機会もあまりありません。つまり時計というのは、ほとんどの場合分針を見るということなのです。それだけ分針は、人によりそった「時」といえます。その分針が泪のようだというのですから、垂直に垂れ下がっているのでしょう。つまり「30分」を指しており、日暮れというのですから、時刻は「5時半」なのでしょうか。ちょうど一日の仕事を終えて、帰り支度をしている時刻です。一日に起きるべきことはひととおり起き、どんな日だったかの結論が出ている頃です。掲句にあるいちにちは、おそらく辛いものであったのか、あるいは切ないものであったのでしょう。帰り道に腕時計を見る目には泪がたまっています。さて時刻はというと、分針はその太さの中で、これも目にいっぱいに泪をためています。分針のゆっくりとした動きが、なぜか作者の不器用な生き方に重なって見えてくるのです。それでも時がたてば分針は、確実に上に向いて動いてゆきます。同様に作者の思いも、分針を追いかけるようにして、泪をぬぐえるところへ移ってゆければと、思います。『現代歳時記』(1997・成星出版)所載。(松下育男)




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