January 022012
読初は久方ぶりのトルストイ
向井ゆたか
若いころに読んだ本を再読したいと思うときがある。私の例で言えば、トルストイの『戦争と平和』だとかマンの『魔の山』などがそれだ。しかしただ思うだけで、いつか読もうと先延ばしにしているうちに、初読の時からずるずると半世紀もの時間が流れてしまった。反省してみると、なかなか再読できない本は、たいていがもはやクラシック本となった書物だ。読み返したいとは思っても、それらは現在ただいまの時代的呼吸をしていないために、すぐに作品世界に入っていくことが難しいのである。だから、ついつい先延ばしにしてしまいがちになる。そこへいくと句の作者は、うまいタイミングを見つけたものだと思う。なるほど、正月の時間の流れは普段に比べれば、ずっと非日常的だろう。そしてそんな流れのなかに、ねらいすましたような、トルストイを読む時間を挿し込んだのだった。正月ならではの句であり、「読初」の季語もよく効いている。『円虹例句集』(2008)所載。(清水哲男)
January 012012
元日の玄関にある笑ひ声
塩尻青笳
年が明けました。昨年は特別な年でした。日本の歴史の中で、大きな意味をもった年でありました。それでも年は明けました。2012年、もう特別でなくてもいい。当たり前の時間が流れて、当たり前に水道からきれいな水が出て、当たり前に家族と夕飯を食べられる年であってほしいと、願わずにはいられません。本日の句、読んでいるだけでホッとした気持ちになります。玄関にある笑い声。年始の挨拶に来た友人や親せきとの笑い声でしょうか。軽い冗談でも言いあっているのでしょうか。気の置けない間柄なのでしょう。お互いに幸せな一年でありますようにと、笑い声の間には、深い思いが包み込まれているのです。『日本大歳時記 新年』(講談社・1981)所載。(松下育男)
December 312011
極月や父を送るに見積書
太田うさぎ
先週に続いて『俳コレ』(2011)よりの一句。同じ作者で〈父既に海水パンツ穿く朝餉〉〈ぐんぐんと母のクリームソーダ減る〉とあり、いいなあこのご両親というか親子関係、などと思いながら拝読していたので、この一句は寂しい。近親者を送ったことがある人ならおそらく皆経験したであろう感情が、きっちり俳句になっている。事務的なことをこなしていると、気が紛れたりだんだん実感がわいたりするけれど、波のように間欠的に押し寄せてくる感情は、悲しいのか寂しいのかどこか腹立たしいのか、なんだかうまく言えない。そこをまさに言い得ているのだろう。極月も最後の一日、怒濤の一年がとりあえず終わろうとしている。よい年というのがどんな年なのかわからないけれどやはり、来年はよい年になりますように、と願わずにはいられない。(今井肖子)
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