リ檀句

January 0412012

 らちもなき御用始めの訓辞かな

                           内藤さち子

公庁や民間企業の多くは、きょう4日が御用始めである。つい先日、あわただしく御用納めをしてゆっくり新年を迎えたと思ったら、アッという間の御用始め。「良いお年を」という挨拶が、掌を返したように「本年もよろしく」に転換する。否も応もない一年の仕事のスタートである。身を引き締めて社長や上司の訓辞を聞く。いつの時代、どこでも、およそ訓辞というものには「厳しい」という言葉がつらなる。さしずめ今年の訓辞(あるいは年頭の挨拶)は、東日本大震災のことを避けることはできまい。大震災をここで、「らちもなき」と決めつけるわけではないけれど、およそ「御用始めの訓辞」といったものは、形式ばった「らちもなき」内容だったりする。いや、むしろ「らちもなき」訓辞がならべられている時のほうが、むしろ泰平の世のなかなのだ、と言えるかも知れない。そのへんに思わぬ落し穴があったりする。実際の仕事は明日からで、この日は訓辞を受けたり、挨拶回りをしたりで、中途半端な一杯機嫌のうちに一日が終わる、というのが元サラリーマンだった小生の正直な思い出。年々歳々、仕事が始まったら松の内もお正月気分もへったくれもない。ちょうど一年前の4日に、小生は親しかった知人の葬儀に参列して、2011年が始まったのだった。平井照敏編『新歳時記』新年(1996)所収。(八木忠栄)


January 1112012

 年はじめなほしかすがに耄(ぼ)けもせで

                           坪内逍遥

しかすがに」は、「然(しか)す」+「がに」(助詞)で、「そうは言うものの」といった意味をもつ。若いときはともかく、わが身に何が起こっても不思議はない六十、七十代になれば、おのれの「耄け」のことも頭をかすめるのは当然である。だから耄けている人を見ると、他人事だと言って見過ごすことはできなくなってくる。「明日はわが身」である。掲句は逍遥が何歳のときの句なのかはわからない。逍遥は六十歳を過ぎた頃から短歌や俳句を始めたという。昔は年が改まることで歳をとった。だから大晦日を「歳とり」とも呼んだ。年が改まったけれど耄けていないという安堵と妙な戸惑い。もっとも耄けた本人に耄けた自覚はないだろうけれど。逍遥は「元日におもふ事多し七十二」という句も残しているが、七十五歳で亡くなっている。人間誰しも死ぬことは避けられないし、致し方ないけれど、どんな死に方をするかが問題である。晩年の立川談志もそう言っていた。誰しも耄けたくはないだろうが、予測はつかない。高齢になって心身が意のままにならないのに、いつまでも耄けないというのも、傍から見ていてつらいことだと思われる。いかがだろうか? 逍遥にはそれほどすぐれた俳句はないが、もう一句「そそり立つ裸の柿や冬の月」を挙げておこう。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


January 1812012

 冬の海吐き出す顎のごときもの

                           高橋睦郎

つも思うことだけれど、タイもヒラメもシャケも魚はいずれも正面から見ると可愛らしさはなく、むしろ獰猛なつらがまえをしている。目もそうだが、口というか顎にも意外な厳しさが感じられる。アンコウなどはその最たるものだ。掲句の「顎」は魚の顎である。ここでは魚の種類は何でもかまわないだろうが、「冬の海」と「顎」から、私はアンコウを具体的に思い浮かべた。陸揚げされてドタリと置かれた、あの大きい顎から冬の海をドッと吐き出している。獰猛さと愛嬌も感じられる。深海から陸揚げされた魚は、気圧の関係でよく舌を口からはみ出させているが、臓物までも吐き出しそうに思えてくる。もちろんここは春や夏ではなく、「冬の海」でなければならない。「顎のごときもの」がこの句に、ユーモアと怪しさのニュアンスを加えている。睦郎本人は「大魚の顎に違いないが、はっきりそう言いたくない気持があっての曖昧表現」と自解している。原句は「冬の海顎のごときを吐き出しぬ」だったという。下五を「ごときもの」としたことで、「曖昧表現」の効果が強調されて句意が大きくなり、深遠さを増している。それにしても「ごときもの」の使い方は容易ではない、と改めて思い知らされた。睦郎には、他に「髑髏みな舌うしなへり秋の風」という傑作がある。『シリーズ自句自解Iベスト100・高橋睦郎』(2011)所収。(八木忠栄)


January 2512012

 雪降れば佃はふるき江戸の島

                           北條秀司

京にはめったに雪は降らないけれど、それでも一冬に二、三回は降る。10センチも降れば交通が麻痺してしまう。東京は雪に対する備えが不十分だから、大変なことになる。雪国に住んでいた亡くなった母が、突然の雪に難渋してすべって転ぶ東京の人たちをテレビで観て、「バアカめ!」と笑っていたことがある。備えがないのだから仕方がない。それはともかく、雪が降ると都会の過剰な装飾や汚れが隠蔽されて、景色が一変する。高層ビルの街にも、冬らしい風情が加わってホッとさせられる。まして古い時代の風情を残していた頃の佃島に雪が降ったら、「ふるき江戸」に一変したにちがいない。そういう時代に作られた句である。今や佃島にも高層マンションが林立してしまい、とても「江戸」というわけにはいかない。住吉大社に詣でてみると、背景に屏風のようにめぐらされた高層ビル群が、どうしようもなく情緒をぶちこわしている。佃島はもともと名もない小島だった。徳川家康の時代、摂津の佃村から漁父30余名が移住してできた漁村。それでも銀座から近いわりには、まだ古い情緒がいくぶん残っていると言っていいだろう。秀司は「王将」など大劇場演劇の劇作家として第一人者だった。残された俳句は少ないけれど、他に「山門の煤おとしをり雪の上」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


February 0122012

 夜の雪わらじもぬがで子を思ふ

                           勝 海舟

の降る夜に外出から海舟は帰って来た。離れて暮らす吾子のことをふと思い出し、「しばらく会っていないが、この雪のなかでどうしているだろう?」と、わらじを脱いであがるのも忘れて、そのまま玄関で、しばし吾子のことをあれこれ気にかけている。子を思う親の心である。あるいは、もしかすると吾子のところから今帰って来たばかりで、何かしらフッと気にかかっている、ということなのかもしれない。「わらじもぬがで」だから、よほど強く気にかかることがあったものと思われる。雪降る夜の静けさが、吾子のことをいつになく思い出させてしまったのだろう。親は幾つになっても、何につけ子のことを思うものである。海舟は「政治家や医者とちがって、俳諧は金を捨てて楽しむからいい」と語ったことがあると言われている。俳諧とは本来そういうものだったはずであろう。他に「梅盛り枝は横たて十文字」がある。高橋康雄『風雅のひとびと』(1999)所載。(八木忠栄)


February 0822012

 かじかむや寄る七星はひくくして

                           棟方志功

い夜の北斗七星が、それぞれ特別に身を寄せ合っているというわけではない。けれども寒さが厳しいから、あたかも身を寄せあっているように感じられるのであろう。しかも空気が澄んでいるから、星がことさら大きく地上にずり落ちそうに、迫っているように低く感じられるというのである。実際、七星は春夏には北斗星よりもずっと高い位置にあるが、秋冬には地平線まで低くずり落ちて、見えにくい位置になっている。板木(志功は「版木」とは呼ばなかった)に、全身這うように顔をこすりつけるようにして描きあげ、彫りあげてゆく志功独特の制作の姿が、この句にかぶさり重なっているようにさえ感じられる。ノミを握る手はかじかんでいるから、いっそうダイナミックに大胆に彫りあげているものと思われる。志功は俳句を二十代で始めたが、原石鼎や石田波郷、永田耕衣たちの作品に触発された美術作品を発表していた。とりわけ前田普羅との付き合いが深かったと言われる。「渦置いて沈む鰻や大月夜」という句などは、志功の絵そのものの力強さを感じさせる。『みんな俳句が好きだった』(2009)所載。(八木忠栄)


February 1522012

 大腸の如き路地あり冬銀河

                           長谷邦夫

の「路地」は特定しなくとも、どこの街にもあって猥雑な雰囲気をもった路地を想定してかまわない。でも、作者は「新宿漂流」なるタイトルで詠んだいくつかの俳句がある、と断わっているからこれは新宿にある路地だろう。大腸のようにうねくねとした新宿の路地と言えば、酒場が軒をつらねている界隈ということになろう。すっきりととりすました健やかな界隈ではあるまい。深夜、酔って良い機嫌になった連中が、うるさい声をあげながら路地をうろつきまわっている光景が見えてくる。ふと見あげれば冴えわたる冬空に、銀河がくっきり横たわっている。銀河と路地、どちらもうねっているという対比。邦夫は「少し古い新宿を知っておられる方ならば、多少は感じていただけるか……」と付記し、さらに「これはゴールデン街内にはない店や場所を詠んでいる」と断わっている。とすると、さてどこらあたりか? まあ、新宿にはゴールデン街や柳街、小便横丁に限らず、大腸や小腸のごとき路地はあちらこちらにあった。邦夫は詩人でもあり、赤塚不二夫を支えた漫画家。かつて清水昶の「俳句航海日誌」にも、多くの俳句を書きこんでいた。他に古い新宿を詠んだ句に「永き日や『風月堂』で一茶論」がある。『桜三月散歩道』(2011)所載。(八木忠栄)


February 2222012

 松籟を雪隠で聞く寒さ哉

                           新美南吉

春から二週間あまり経ったけれど、今年の春はまだ暦の上だけのこと。松籟は松を吹いてくる風のことだが、それを寒い雪隠でじっと聞いている。「雪隠」という古い呼び方が、「寒さ」と呼応して一層寒さを厳しく感じさせる。寒いから、ゆっくりそこで落着いて松籟に耳傾けているわけにはゆかないし、この場合「風流」などと言ってはいけないかもしれないけれど、童話作家らしい感性がそこに感じられる。今風のトイレはあれこれの暖房が施されているけれども、古い時代の雪隠はもちろん水洗ではなく、松籟が聞こえてくるくらいだから、便器の下が抜けていていかにも寒々しかった。寺山修司の句「便所より青空見えて啄木忌」を想い出した。南吉は代表作「ごんぎつね」で知られている童話作家だが、俳句は四百句以上、短歌は二百首ほど遺している。また宮澤賢治の「雨ニモマケズ」発見の現場に偶然立ち会っている。他に「手を出せば薔薇ほど白しこの月夜」がある。『みんな俳句が好きだった』(2009)所載。(八木忠栄)


February 2922012

 硯冷えて銭もなき冬の日暮れかな

                           林芙美子

のなかも心のうちも、冷えきっている冬の日暮れである。使われることのない机の上の硯までもが冷えきってしまっていて、救いようがないといった様子。硯の海が干上がって冷えているということは、仕事がなくて心も胃袋も干上がっていることを意味している。けれども、その状態を俳句に詠めたということは、陰々滅々としてどうにも救いようがないという状況とは、ちょっとニュアンスがちがう。いくぶんかの余裕が読みとれる。辻潤は芙美子の詩集『蒼馬を見たり』を「貧乏でもはつらつとしている」と高く評価したが、この句は「銭もなき」ことにくじけてはいない。この句には自注がある。芥川龍之介の作品を読んで、「こんなのがいいのかしらと、私も一つ冷たいぞっとするようなのを書いてみようと、つくって、当分うれしかった」というのである。「こんなのが……冷たいぞっとするような……うれしかった」という言葉に、したたかささえ感じられる。貧乏を詠んだ芙美子らしい句だけれど、どこかしら余裕があるように思われる。19歳のときに初めて俳句を作ったという。「桐の花窓にしぐれて二日酔」「鶯もきき飽きて食ふ麦の飯」などがある。『みんな俳句が好きだった』(2009)所載。(八木忠栄)


March 0732012

 男衆の声弾み雪囲い解く

                           入船亭扇辰

囲いは庭の樹木や家屋を雪から守るために、板や木材などでそれらを囲うもの。晩秋の頃の作業である。雪囲いを丹精こめて作ったのに、暖冬で雪が少なくて空振りに終わってしまうなんてことも実際にある。また逆に「長期予報で、雪はたいしたことないらしい」と油断して、逆にえらい目に遭うということもある。雪もグンと減った春先になって雪囲いを解くのだから、作業をする男たちの声は春がようやく到来したという喜びと、これから野良仕事を始められることに対する意気込みとで、テンションはあがっている。掲句からは、その躍動感が十分に伝わってくる。「男衆」という呼び方も聞かれなくなった。扇辰は当方と同じ雪国長岡の出身だから、ここは雪国の春先の実感があって詠んでいる。扇辰の落語の師匠は入船亭扇橋という、本確的な句を詠むことと、淡々とした芸風でよく知られている。落語界では正統派の中堅である扇辰、彼の活躍は今さら言うまでもない。落語家仲間で組むトリオのバンドの公演では、ドラムスを叩きヴォーカルもこなす茶目っ気のある才人。俳句は師匠の影響で始めたが、気の合った仲間と句会を楽しんでいるようだ。掲句については「雪囲い解く」という季語だけで七音、「残り十音で表現するのはむずかしいです。苦しまぎれにひねり出しました」と正直に述懐している。他に「恩師訪ううぐいす餅の五つもて」がある。「新潟日報」(2012.2.8)所載。(八木忠栄)


March 1432012

 炬燵今日なき珈琲の熱さかな

                           久米正雄

月中旬にもなって炬燵の句?――と首をかしげるむきがあるかもしれない。けれども、少し春めいてきて暖かくなったからといって、さっさと炬燵やストーブを片づけることにはなかなかならないものだ。しばらく暖房で過ごしてきたことの惰性もあるし、北の地方ではそろそろ片付けていい時季であっても、まだ寒さが残っている。(今年はいつまでも寒い。)炬燵を取り去った当初はがらんとして、部屋にはどこかしら寒々しさが漂う。そんな時にすする珈琲の熱さは、ひとしお熱くありがたく感じられるだろう。熱い珈琲カップを、両手で押しいただいているといった様子が見えてくる。そうやって人々は徐々に春に馴染んで行くわけだ。「炬燵」という古い語感と、しゃれた語感の「珈琲」の取り合わせに注目したい。また「今日炬燵…」ではなく、「炬燵今日…」とした語法によって「炬燵」が強調され、リズムも引き締まった。正雄は三汀と号し、俳句の本格派でもあった。他に「綾取りの戻り綾憂し春の雨」がある。平井照敏編『新歳時記・春』(1996)所収。(八木忠栄)


March 2132012

 春寒やしり尾かれたる干鰈

                           村野四郎

年の冬は例年以上に寒さが厳しかったから、春の到来は遅い。したがって、桜の開花も遅いという予報である。カレイに限らずアジでもメザシでも、魚の干物の尾はもろくていかにもはかない。焼けば焦げて簡単に砕けるか欠け落ちてしまう。(私は焼いた干物のしり尾は、食べる気になれず必ず残す。)掲句の場合のカレイは柳カレイだろうか。ならば尾はいっそうもろい。まだ寒さが残る春の朝、食膳に出されたカレイの干物にじっと視線を奪われながら、食うものと食われるもの両者の存在論を追究している、といった句である。いかにも新即物主義(ノイエ・ザハリヒカイト)の詩人らしい鋭い感性がそこに働いている。上五の「寒:kan」、中七の「かれ:kare」、下五の「鰈:karei」、それぞれの「k音」の連なりにも、どこかまだ寒い響きの感じを読みとることができる。四郎の代表的な詩「さんたんたる鮟鱇」は「顎を むざんに引っかけられ/逆さに吊りさげられた/うすい膜の中の/くったりした死/これは いかなるもののなれの果だ」とうたい出される。干鰈と鮟鱇の見つめ方に、共通したものが感じられないだろうか。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


March 2832012

 影ふかくすみれ色なるおへそかな

                           佐藤春夫

の「おへそ」はもちろん女性のそれだけれども、春夫は女性の肉体そのものを直接のぞいて詠ったわけではない。ミロのヴィーナスの「おへそ」である。一九六四年に上野の国立西洋美術館にやってきて展示され、大きな話題を呼んで上野の山に大行列ができた。その折、春夫は一般の大行列に混じって鑑賞したわけではなく、特別に許されて見学者がいないところで、ヴィーナスに会うことができたのだという。それにしても「すみれ色」とはじつに可憐で奥床しく、嫌味がない。春夫があの鋭い目と穏やかならざる凄みのある表情で、「おへそ」をじっと睨みつけている様子が想像される。私は後年、パリのルーブル美術館で通路にさりげなく置かれたヴィーナス像を、まばらな見学者に拍子抜けしながら、しげしげと見入ったことがあったけれど、さて、おへその影が何色に見えたか記憶にない。同じときに春夫は「宝石の如きおへそや春灯(はるともし)」という句も作っている。「宝石」よりは「すみれ色」のほうがぴったりくることは、誰の目にも明らか。関森勝夫『文人たちの句境』(1991)所載。(八木忠栄)


April 0442012

 春昼や細く脱がれて女靴

                           永井龍男

かにも龍男らしいこまやかな目のつけどころに、感服するほかない。きれいでスマートな女靴が、掃除のゆき届いた玄関にきちんと脱いである。素直な着眼が気持ち良いし、少しもむずかしい句ではない。また、ここは「春昼」がぴったり決まっていて、「細(ほそ)く脱がれて」にさりげないうまさが感じられる。「小さく」ではなく「細く」にリアリティーがある。なかなかこうは詠えない。靴を脱いだ女性の物腰から品格までが、快く想像されるではないか。足ばかりでかくてドタ靴専門の当方などは、身の置きどころに困ってしまう名句である。脱線ついでに……当方がよく見る靴探しの夢がある。何かの集会に参加して、さて、帰る時になって気に入っている自分の靴を探すけれども、脱ぎ捨てられたおびただしい靴のどこをどう探しても見つからず、困り果てているという夢。これ、何のタタリなのか! 同じような夢に悩まされる御仁は、ござらぬか? 龍男の春の句には「あたたかに江の島電車めぐりくる」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


April 1142012

 阿部定も昭和も遠き桜哉

                           間村俊一

きなり阿部定である。いわゆる「猟奇事件」として往時の世間を騒がせた、ご存知の事件である。昭和11年5月、愛欲のはてに情夫石田吉蔵を殺害した阿部定は、五年の刑期を終えて出所して社会復帰した。その調書を読んだことがあるけれど、しっかりした女性だと深く胸を打たれるものがあった。小説やいくつかの映画にもなり、関根弘は『阿部定』という詩集さえ刊行している。さて、掲句はもちろん草田男の「降る雪や明治は遠くなりにけり」が踏まえられている。もはや「明治」ではなく「昭和」であり、「雪」ではなく「桜」である。「阿部定」「昭和」「桜」の取り合わせは、いかにもヴィヴィッドなこの才人らしくて、お見事。俳人諸家は残念ながら、きっとここまで大胆には詠わないだろう。何かにつけて、「昭和が終わった」とか「戦後が終わった」と巷間しばしば言われるが、あの阿部定を持ち出して昭和を遠ざけ、そこに桜をあしらったあたりは、さすが並の装幀家ではない。「桜」が猟奇的な阿部定事件を熱く浄化しているように感じられて、後味はいい。句集の後記に「絵空事めいた句が多くなつてしまふ」とあるが、俳人でないわれらにとって、そこにこそポイントが潜んでいるのではないか。他に「人妻にうしろまへある夕立かな」がある。『鶴の鬱』(2007)所収。(八木忠栄)


April 1842012

 貧しさに堪へ来し妻や花菜漬

                           田中冬二

年、日本では「貧しさ」とか「貧困」という言葉はあまり聞かれなくなった。開発途上国の特定の地域を指して使われるくらいか。では、日本は豊かになったのか? 概してそうなのかもしれない。けれども、孤独死や高齢の親子の餓死など、今どき信じられないようなニュースが絶えない。「ワーキングプア」などというイヤな言葉がまかり通る。働く貧困層だって?「貧しさ」は市民社会の物心の日常の奥に、今も依然として生き延びている。その昔(わが少年期でもいい)は現在にくらべて一般に貧しかったが、ゆとりのある人間的な時間がそこには流れていた。貧しさというものとじかに向きあうのは、どこの家庭でも家計をやりくりする主婦だった。男ではなく賢明な妻たちこそ、一様に「ボロは着てても心の錦」とじっと堪えていたのではないか。古き時代、堪えて堪えて堪えた妻たち。「花菜漬」は菜の花のまだ青いつぼみを漬けたもので、その素朴な美味しさは食感も群を抜いている。「貧しさ」にも、それに「堪えて来た妻」にも、春は確かな足どりでやってくる。そんな春を味あわせてくれるのが、素朴な花菜漬の味である。冬二は妻を思いやり、春を実感する。「花菜漬」が句を明るくしめくくっている。『行人』『麦ほこり』などの句集を持つ冬二は「これまで俳句を詩作の側、時にそのデッサンとして試作して来たが、本格的の俳句は生やさしいものでない」と謙虚に述べている。他に「桑の芽のほぐれそめにし朝の雨」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所載。(八木忠栄)


April 2542012

 はるさめに昼の廓を通りけり

                           永井荷風

風は花街や廓を舞台にした俳句を、どれくらいの数詠んだのだろうか。掲句は二十代に詠まれたもの。荷風は二十歳から七十四歳になるまで、本格的に俳句を作った(亡くなったのは七十九歳)。静かにしとしとしっとり晩春に降りつづけるのが春雨とされる。月形半平太ではないが、春雨は濡れてもあまり気にならない。どこかしら滝田ゆうの寺島町を舞台にした漫画が想起される俳句だが、若いときの作であるだけに、昼の静けさのなかにも生気がひそんでいるように感じられる。昼の廓だから、夜の喧噪と対照的にまだ寝ぼけていて、路上は信じられないほどにしんと静まり返っているのだろう。おっとりとぼやけた春雨と解釈するか、すべてを洗い流す恨みの春雨と解釈するか――。残念ながら、遅れて来た当方に登楼の経験はないが、花街へやって来る客は、通りからのぞいて冷やかして行くだけ(「ぞめき」と呼ばれた)の客が大半だったという。落語の傑作に「二階ぞめき」という噺がある。惚れた花魁がいるというのではなく、ぞめきが大好きで吉原通いがやめられない大店の若旦那のために、それではとおやじが家の二階に吉原そっくりの街を造った。若旦那がそこ(二階)へ出かけて冷やかして歩くという奇想天外な傑作である。自宅の二階ならば昼も夜もあるまい。荷風には「はる雨に灯ともす船や橋の下」もある。磯辺勝『巨人たちの俳句』(2010)所載。(八木忠栄)


May 0252012

 自由への道出口なし嘔吐蠅

                           榎本バソン了壱

れが俳句?――といぶかしく思われる御仁は多いだろうけれど、れっきとした俳句である。(俳人はこういう句は間違っても作らないだろう。)畏れ多くも、サルトルの著書のタイトルを列挙しただけだが、ちゃんと五・七・五の定形であり、夏の季語も入っている。句意も妙に辻褄が合っているし、下五「嘔吐蠅」は「オートバイ」の駄洒落。「ガリマール版人文書院フランス装実存主義への憧憬」と添え書きがあるが、私などの学生時代には、あの「人文書院フランス装」が大抵の書店には必ず並んでいた。「実存主義」に遅れはとらじと買いこんで貪り読んだ、青い日々が懐かしい。「私が影響を受けたフランスの文学、美術、映画、街区、生活、極めて個人的なさまざまな記憶を掘りおこして、俳句にしてみようと考えた」と後書にある。なるほど、ランボオ、ヴェルレーヌに始まって、ゴダールあり、オペラ座やエスカルゴを経て、クスクスまでと幅広い。48句は「AKB48への対抗である」と鼻息も荒い。ちなみにランボオを詠んだ句は「少年は地獄の季節駆け抜けり」。各句とも例によってユニークな筆文字で書き添えられていて楽しめるし、さらにひるたえみ嬢による仏訳もそれぞれに付されている。『佛句』(2012)所収。(八木忠栄)


May 0952012

 葬列に桐の花の香かむさりぬ

                           藤沢周平

色が印象的な桐の花は、通常4月から5月上旬にかけて咲く。今の日本では産地へ行かないかぎり、桐の花を見ることがむずかしくなった。ちなみに桐の花は岩手県の県花である。10年近く前になろうか、中国の西安に行ったとき、田舎をバスで走りながら、菜の花の黄と麦の緑、それに桐の花の紫、三色を取り合わせた田園の風景に感嘆したことがあった。掲句は周平が、もともと「馬酔木」系の俳誌「海坂」1953年7月号に、四句同時に巻頭入選したなかの一句。他に「桐の花踏み葬列が通るなり」など、四句とも桐の花を詠んだものだった。このとき周平は肺結核で東村山の病院に入院中で、近くに桐の林があったという。残念ながら私は桐の花の香を嗅いだことはないけれど、しめやかに進む葬列を桐の花の香と色彩とが、木の下を進む葬列を包むようにかぶさっているのだろう。美しくやさしさが感じられるけれど、どこかはかなさも拭いきれない初夏の句である。このころ周平は最も辛い時代だったという。『みんな俳句が好きだった』(2009)所載。(八木忠栄)


May 1652012

 南風や小猿の赤いちゃんちゃんこ

                           菊田一夫

、5月頃から吹きはじめる湿った暖かい風が南風。北風とちがって大方は待たれている風であるゆえに、日本の各地でさまざまな呼び方がされている。正南風(まみなみ、まはえ)、南風(みなみかぜ、なんぷう、はえ)、南東風(はえごち)、南西風(はえにし)……。気候と密接な関係にある農/漁業者の労働にとって,特に無視できない南から吹く風である。夏の到来を告げる風。小猿が着ている「ちゃんちゃんこ」は冬の季語だが、小猿が季節はずれのちゃんちゃんこをまだ着ているうちに,夏がやってきたよ、というやさしい気持ちが句にはこめられている。動物園などに飼われている猿ではなく、動物好きの個人に飼われて愛嬌を振りまいているのを、通りがかりに目にしたのだろう。赤いちゃんちゃんこをまだ着せたままになっていることに対する気持ちと、「もう夏だというのに……」という気持ちの両方をこめながら、作者は微笑んでいるようだ。芭蕉は「猿も小蓑をほしげなり」と詠んだが、ここはすでに「蓑」の時代ではない。加藤楸邨に「遺書封ず南風の雲のしかかり」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


May 2352012

 袷着て素足つめたき廊下かな

                           森田たま

(あはせ)は冬の綿入れと単衣のあいだの時季に着るもので、もともとは綿入れの綿を抜いたものだったという。夏がめぐってきたから袷を着る。気分は一新するにちがいない。もちろんもう足袋も鬱陶しい時季だから、廊下の板の上を素足でじかにひたひた歩く、そのさわやかな清涼感が伝わってくる。人の身も心もより活動的になる初夏である。足袋や靴下を脱いで素足で廊下を歩き、あるいは下駄をはく気持ち良さは、今さら言うまでもない。人間の素肌がもつ感覚にはすばらしいものがある。ところで、森田たまを知る人は今や少なくなっているだろうが、『もめん随筆』『きもの随筆』『きもの歳時記』などで知られた人の句として、掲句はなるほどいかにもと納得できる。ひところ参議院議員もつとめ、1970年に75歳で亡くなった。「いささかのかびの匂ひや秋袷」という細やかな句もある。また三橋鷹女には「袷着て照る日はかなし曇る日も」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


May 3052012

 生き方の他人みなうまし筍飯

                           嶋岡 晨

飯、麦飯なども夏の季語とされるけれども、やはり筍飯は初夏の到来を告げる、この時季ならではの飛び切りのご馳走である。若いときはともかく、人は齢を重ねるにしたがって、生き方がうまいとか、要領が良いとか良くないとか、自他ともに気になってくるようだ。が、うまい/うまくないは“運”もあるだろうし、努力だけではどうしようもないところがあって、なかなか思うように運ばないのが世の常。いや、とかく他人(ひと)さまのほうが、自分より生き方がうまいように思えるものでもある。おいしい筍飯を食べて初夏の味を満喫している時だから、いっそう自省されるということなのだろう。掲句の「うまし」はもちろん他人の生き方のことだが、同時に「筍飯」にも懸かっていると読解すべきだろう。(蛇足:私は筍の季節になると、連日のように煮物であれ、焼物であれ、筍飯であれ、一年分の筍を集中的に食べてしまう。日に三度でも結構。ところが今年は、セシウム汚染で地元千葉のおいしい筍は出荷停止となり、筍を食べる機会は数回で終ってしまった。食ベモノノ恨ミハ怖イゼヨ! 満足できない初夏であった。)晨には他に「水底に沈めし羞恥心太」がある。『孤食』(2006)所収。(八木忠栄)


June 0662012

 骨酒やおんなはなまもの老女(おうな)言う

                           暮尾 淳

酒は通常焼いたイワナを器に入れて熱燗をなみなみ注ぎ、何人かでまわし飲みするわけだが、季節を寒いときに限定することはあるまい。当方は真夏、富山県の山奥の民宿で何回か骨酒の席を経験したことがある。特にとりたてておいしい酒とは思わないが、座が盛りあがる。一度だけ、見知らぬ若い女性と差しで飲んだこともあった。しかし「なまもの」などという言い方をすると、女性からクレームをつけられるかもしれませんよ、淳さん(おとこはひもの?)。中七を平仮名書きにしたところに、作者が込めた諧謔的な本音があるように思われる。てらいもあるのかもしれない。「なまもの」はおいしいが、中毒するという怖さもある。「なまもの」だからといって、「刺身」などではなく「骨酒」を持ち出したあたり、なるほど。酒に浸され、まわし飲みの時間が経過するにしたがって(おんなも一緒に飲んでいるのだろう)、次第に魚の身が崩れ、骨が露出してくる姿に、「おんな」にも飲まれる哀れと怖さを感じているのかもしれない。ここは老女に「おんなはなまもの」と言わせたのだから、いっそう怖いし、皮肉も感じられる。句集の解説で、林桂は「暮尾さんの俳句の文体は、俳句的修辞への悪意とも憎悪ともつかないものがあって緊張している。最初から俳句表現に狎れることを拒否した緊張感だ」と書く。他に「もういいぜ疲れただろう遠花火」などがある。『宿借り』(2012)所収。(八木忠栄)


June 1362012

 髪結ふやあやめ景色に向きながら

                           室生犀星

人で「あやめ」と「かきつばた」の違いがわからない人はいないだろう。わからない? 俳人たる資格はないと言っていいかも(当方などはあやしいのだが)。「あやめ」はやや乾燥した山野に生えて、花びらに網模様がある。「かきつばた」は湿地や池沼に自生して、花は濃紫である。まだ暑くはないさわやかな五〜六月頃、縁側か窓辺で女性がおっとり髪を結っているのだろう。あるいは結ってもらっているのかもしれない。前方にはあやめが群生していて、そこを吹きわたってくる風が心地よい。そう言えば、あやめの花の形は女性のある種の髪形のようにも見える。そんな意識も作者にはあったのではないかと推察される。昭和二十八年五月に、犀星は「髪を結ふ景色あやめに向きながら」と詠んだが、五日後に上掲のかたちに改めたという。なるほど「髪を結ふ景色」よりも「あやめ景色」のほうがあやめが強調され、句姿が大きく感じられないだろうか。犀星のあやめの句に「にさんにちむすめあづかりあやめ咲く」もある。『室生犀星句集』(1979)所収。(八木忠栄)


June 2062012

 一つ蚊を叩きあぐみて明け易き

                           笹沢美明

の消え入るような声で、耳もとをかすめる蚊はたまらない。あの声は気になって仕方がない。両掌でたやすくパチンと仕留められない。そんな寝付かれない夏の夜を、年輩者なら経験があるはず。「あぐ(倦)みて」は為遂げられない意味。一匹の蚊を仕留めようとして思うようにいかず、そのうちに短夜は明けてくる。最も夜が短くなる今頃が夏至で、北半球では昼が最も長く、夜が短くなる。「短夜」や「明け易し」という季語は今の時季のもの。私事になるが、大学に入った二年間は三畳一間の寮に下宿していたので、蚊を「叩きあぐ」むどころか、戸を閉めきればいとも簡単にパチンと仕留めることができて、都合が良かった。作者は困りきって掲句を詠んだというよりは、小さな蚊に翻弄されているおのれの姿を自嘲していると読むことができる。美明は、戦前の有力詩人たちが拠った俳句誌「風流陣」のメンバーでもあった。「木枯紋次郎」の作者左保の父である。他に「春の水雲の濁りを映しけり」という句がある。虚子には虚子らしい句「明易や花鳥諷詠南無阿弥陀」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所載。(八木忠栄)


June 2762012

 朝顔の夢のゆくへやかたつむり

                           中里恒子

たつむりの殻の螺旋は右巻き? 左巻き? ――大部分は右巻きだそうだ。それはともかく、かたつむりは梅雨の今頃から夏にかけて大量に発生してくる。かたつむりは可愛さが感じられても、ヌメ〜〜としていて必ずしも美しいものとは言えない。掲句は「朝顔の夢のゆくへ」という美しい表現との取り合わせによって、かたつむりにいやな印象は感じられない。それは朝顔の夢なのだろうか、かたつむりの夢なのだろうか、はたまた人が見ている夢なのだろうか。螺旋状の珍しい夢だったかもしれないけれど、どんな内容の夢だったのだろうか。そこいらの解釈は「こうだ!」と声高に決めつけてしまっては、かえって野暮というもの。ついでに「朝顔」(秋)と「かたつむり」(夏)の季重なり、そんなことにこだわるのも野暮というものでげしょう。文人による俳句は、そういうことにあまりこだわらないところがいい。恒子は横光利一、永井龍男等の「十日会」で俳句を詠んでいた。他に「花途絶えそこより暗くなりにけり」「法師蝉なにごともなく晴れつづく」などがある。(『文人俳句歳時記』)(1969)所載。(八木忠栄)




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