O謔「句

January 0512012

 声のして達磨の中の達磨売

                           原 雅子

起物の達磨を売るのが達磨市だが、西日本に住んでいたときにはあまりお目にかからなかったように思う。縁起ものの達磨を身近に置いたこともなく、達磨に目を入れるのは選挙や受験合格の特別イベントだと思っていた。川越の喜多院、群馬の高崎を尋ねたときに白目をむいた大小様々の達磨が山と積まれて売られているのに圧倒された。赤い達磨の中から威勢のよい達磨売りの声が響く。高崎では眉が鶴、髭が亀にデザインされたものが人気のようだ。今日が仕事始めの方も多いだろう。今年一年平穏無事に働けて、一つでも多くの達磨に黒々と大きな瞳が入れられることを願わずにはいられない。『束の間』(2011)所収。(三宅やよい)


January 1212012

 灯らぬ家は寒月に浮くそこへ帰る

                           関 悦史

灯や窓明かりがついた家に囲まれて一軒だけが暗い。ずっと一人で住んでいる人には「灯らぬ家」は常態であり、こうまで寂しくは感じないのではないか。待ってくれる家族がいなくなって、よけいに「灯らぬ家」の寂しさが身にこたえるのだろう。深夜になって回りの家の灯りが消えれば冷たい闇に沈んだ家へ寒月の光が射し、浮きあがるように屋根が光る。冷たい月の光がそこに帰る人の孤独を際立たせてゆく。いずれ賑やかに家族の時間も過ぎ去り、誰もが灯らぬ家に帰る寂しさを味わうことになるだろう。帰ったあと、ひとりで過ごす長い夜の時間を思うと掲句の冷たさが胸に刺さって感じられる。『六十億本の回転する曲がつた棒』(2011)所収。(三宅やよい)


January 1912012

 鳩であることもたいへん雪催

                           須原和男

和の象徴の鳩もこのごろは嫌われものだ。マンションのベランダや家の軒先に住みつかれたら、糞で真っ白になるし、鳩が媒介して持ってくる病気もあるという。駅のプラットホームをそぞろ歩きする鳩はのんきそうだが、見上げれば鳩が飛びあがって羽を休めそうなところに刺々しい針金がここかしこに張り巡らされている。むかし伝書鳩を飼うブームがあったが、今のドバトはそのなれの果てかもしれない。底冷えのするどんよりとした雪催の空の下、鳩も苦労している。人であることも大変だけど、鳩で在り続けるのも大変だよなぁ、だけど、餌をやったが最後居つかれても困るしなぁ。と、寒そうに肩をすぼめながら鳩を眺める作者の気持ちを推し量ってしまった。『須原和男集』(2011)所収。(三宅やよい)


January 2612012

 用水路に余り温泉(ゆ)流れ雪催

                           藤崎幸恵

前、冬の水上温泉へ行ったことがある。さらに奥にある秘湯、宝川温泉行きのバスを待つため、市内をぶらぶらしていたのだが、川沿いの道路にスプリンクラーがあって凍結防止なのか絶えず温泉の湯が放出されているのが印象的だった。雪景色に湯気がたつのが温そうだった。湯治場で雪を眺めながら露天風呂に入るのも気持ちがよかった。掲句は「雪催」だから、雪が降る前のどんより曇った空に足元からしんしんと冷えがあがってくる、そんな天気なのだろう。ああ、寒い、側溝の用水にたつ湯けむりが暖かそう。早く熱い温泉(ゆ)にゆっくりと浸かりたい。掲句の背後からそんな声が聞こえてきそうだ。私も温泉に行きたいなぁ。『異空間』(2011)所収。(三宅やよい)


February 0222012

 不景気が普通になりて冬木の芽

                           大部哲也

ブルの頃は都会から遥か離れたところに住んでいたのでお祭り騒ぎのような景気の良さとは無縁だった。それでも仕事が無い、物が売れないといった不平不満を周囲で聞いたことはなかったし、今日より明日、頑張れば給料は増えるといった楽観論が巷にあふれていた。それから二〇数年、不良債権、株価低迷、リーマンショック、欧米危機と、明日にも経済が破綻するかのような脅しをたえず受け続けている気がする。物は溢れているのにこの不安感の正体は何なのだろう。掲句では連続する「ふ」の頭韻が不景気な世の中冬木の芽をうまく照応させている。気象協会の本によると、一日の平均気温が五度から六度を上回ると冬眠をしていた落葉樹の枝先へ水分や養分が運ばれ冬芽が膨らみ始めるという。暦のうえでは立春だけど、世間はずいぶんと長い冬だ。春は来るのだろうか。『遠雷』(2011)所収。(三宅やよい)


February 0922012

 ヒヤシンスしあわせがどうしても要る

                           福田若之

ヤシンスは早春を代表する花。どこか冷たい感じがするのは名前の語感と色と水栽培で育てた経験によるのだろうか。忙しい毎日に心追われる身に「しあわせがどうしても要る」というひたむきなフレーズが痛く感じられる。ひらがなで書かれた「しあわせ」の淡さと対照的に「どうしても」という頑是無い物言いが、格言的フレーズに陥る危険からこの句を掬っている。ヒヤシンスはいくつかある花の候補から恣意的に選ばれた印象だが、下五に置くと語調良く流れすぎるが、上五にあると紫色の小花を集めて凛と直立するヒヤシンスがまずイメージとして浮かび、あとの呟きが自然に滑りだしてゆく。「かもめの両翼あたたかく空に在る」「甲板の風がくすぐったい春だ」みずみずしい感覚が素敵な91年生まれの俳人である。『俳コレ』(2011)所載。(三宅やよい)


February 1622012

 いのうえの気配なくなり猫の恋

                           岡村知昭

だまだ寒いのに猫はとっくに春の訪れを感じ取っているようである。先週ぐらいからあちこちでウンニャー、フニャーと奇怪な鳴き声が聞こえる。それにしても「いのうえ」って誰?なぜひらかなで書かれているのだろう「いのうえ」を手掛かりに句に背景を探そうとしても詮方ない。「お好きにどうぞ」と言った抛りだし方である。それだけに、顔の見えない人物が気になってくる。「いのうえ」は猫にとって警戒を要する人間であるらしい。大事な飼猫に浮かれ猫が近付かないよう監視しているのか、サカリのついた猫を見ると棒を振りあげる危険な人物なのか、ともかくも「いのうえ」の気配がなくなった路地を、塀を猫は小走りに駆け抜け、夜通し鳴き続けることだろう。『俳コレ』(2011)所載。(三宅やよい)


February 2322012

 不健全図書を世に出しあたたかし

                           松本てふこ

あたたか」は春の心地よさがぼーっと感じられる頃で、今年のように厳しい寒さを経た身には、あたたかさを待ち望む気持ちが強くなるようだ。エロ本、マンガ?よく世の中の攻撃の的になる「不健全図書」だけど、その昔、思春期に差しかかった子供たちには誰にも聞けないことを盗み見て裏の世界を知るための指南書のようなものだった。今のようにインターネットもない、親や大人たちはコワイ。面と向かって聞けないことを、年の離れた兄弟がベッドの下にかくしている「不健全図書」をこっそり引っ張り出しては盗み見るスリルを味わっていた。教育的指導を好む大人たちは「不健全図書」が猟奇的な犯罪を招いているお考えかもしれないが、「不健全図書」にお世話になった身としては、そんな単純なものでもないだろうと抗議したい気持ちがある。その意味で不健全図書を作る仕事を「あたたかし」と言ってのける作者の詠みぶりに拍手を送りたい。『俳コレ』(2011)所載。(三宅やよい)


March 0132012

 松林だっただっただっただった

                           広瀬ちえみ

月11日から一年がめぐろうとしている。あの日、あの時に家族や故郷を失った人たちの哀しみ、無念さは言葉に尽くしきれるものではないだろう。「だった」の繰り返しに、身近な松林を起点にあの津波で一瞬にして失われたあらゆる海岸の松林への思いが込められている。人がその木陰に憩い、海水浴に遊んだ松林は無残にもなぎ倒され二度と戻ってはこない。作者は仙台市在住の川柳人。震災当日は長年務めた学校で激しい揺れに襲われたと書いている。「何が起きたのかと思うような激しい揺れだった。それでも何が起きたのかわからないまま死ねないと思った。Sさんに助けられ廊下の窓から逃げた。」四階建の校舎はしなるように揺れ、グランドには亀裂が入り、建て増しした繋ぎ目が十センチ以上離れてしまったという。その後の混乱は想像に難くない。それでも遠くの地で無事を気遣う同人の暖かい呼びかけに応えつつ共に雑誌を編集し、3か月後に刊行した。「花咲いて抱き合う無事と無事と無事」「うれしかり生姜を下ろすことさえも」「垂人」15号(2011)所載。(三宅やよい)


March 0832012

 青き踏む感電防止靴のまま

                           箭内 忍

電防止は帯電防止ともいい、電気工事の作業中にはくためのものらしい。この言葉をネットで検索したところ、神戸の「サヌキ」という靴メーカーの説明書きに行きあたった。「この靴は体内に蓄積される静電気を除去する為のもので、人体の静電気帯電が爆発、火災、電撃のような事故及び災害、又は生産障害の原因となるような作業及び場所で使用されます」自分の身体の中に蓄積された静電気が発火原因になるとはおそろしい。そんな靴を履いて危険な場所で作業している人たちは一刻も気持ちが緩められないだろう。掲句を読んだときには地面から萌え出てくる草の勢いに感電しないように、と想像して読んだので、自分の身体から発生する静電気を除去するための靴というのが意外だった。「青き踏む」に「感電」とくると、萌え出る草にスパークしてしまいそうだけど、それを「防止靴」で打ち消すヒネリが仕込まれている。それが為、この季語が持っている開放的気分とは違った危うさがこの句から感じられるのだろう。『シエスタ』(2008)所収。(三宅やよい)


March 1532012

 ふらここを乗り捨て今日の暮らしかな

                           野口る理

さい頃はぶらんこほどステキな遊具はないと思っていた。学校のぶらんこはいつも順番待ちで心ゆくまで楽しめないので学校が終わると遠くの公園まで自転車で遠出してとっぷりと日が暮れるまでぶらんこを漕ぎ続けたものだ。ぶらんこの板に乗り、勢いをつけて地上を漕ぎ離れると何だか空に近くなり、高く高く耳元で風が鳴るのも心地よかった。おとなになって戯れに乗ってみたことは何度かあるけど、子供のときに感じた爽快感とは程遠いものだった。遠い幼年期の思い出が薄い光に包まれているように、ぶらんこもすぐそこにありながら大人にとっては手の届かないもののようだ。「ぶらんこを乗り捨て」「今日の暮らし」いう中七の句跨りの切れに、単純な時間の経過ではなく、幼年期からおとなになるまでの時間的隔たりが凝縮されている。『俳コレ』(2011)所載。(三宅やよい)


March 2232012

 面壁(めんぺき)も二十二年の彼岸かな

                           大道寺将司

者は東アジア武装戦線「狼」を結成、三菱重工本社を爆破事件の罪を問われて死刑の宣告を受けた。この句は1997年に作られているので、現在は三十七年獄中に暮らしていることになる。「面壁」とは達磨が9年壁に面して座り続け一言も発しなかったという故事に由来するのだろう。2011年2月に「赤軍派の永田洋子が六十五歳で死亡」という記事を新聞で読み、過ぎ去った一つの時代をつくづく思った。三菱重工の事件が起きたのは1974年。70年安保闘争も下火になり、学生運動が過激になっていった頃だったと思う。作者は死刑の宣告を受けて数十年以上、周囲の人との接触をいっさい断たれ自殺したくなるほど拘禁性の強い独房で過ごしているそうである。孤独な房で、自らの死刑と彼岸の死者と向き合いつつ、大道寺は俳句を作り続けている。「丈高く北と対する辛夷かな」『友へ』(2001)所収。(三宅やよい)


March 2932012

 陽炎の広場に白い召使

                           冬野 虹

炎は春のうららかな陽射しに暖められた空気に光が不規則に屈折したためにおこる現象。「召使」という言葉から考えるとこの場所は駅前広場や公園のやや広い芝生といった日本の風景ではなく、ヨーロッパの街の中心部にある広場に思える。城壁に囲まれた中世の街の中心部にある広場は時に処刑や祭りが催された政治的中心地。強固な石造りの建築物や石畳だからこそ、その揺らぎは見るものの不安をかきたてる。その凝視が、「白い召使」といった不思議な形容を生み出したのだろうか。あるようでない、いないようでいる。陽炎を媒介に日常を突き抜ける作者の視線が幻想的な世界を作り出している。『雪予報』(1988)所収。(三宅やよい)


April 0542012

 桜咲く間違い探しに来たような

                           くぼえみ

心部でも桜がようやく満開になった。「二つの絵を見比べてください違うところが7か所あります」というのが間違いさがし。空を見上げて、こぼれるほどの桜の枝々を見つめていると、あのときの桜、いつか見た桜がフラッシュバックしてゆく。そうした記憶の桜と眼前の桜を重ね合わせて、自分が間違い探しをしている気持ちになったのだろう。幼い頃、二階の黒い窓枠のそばの桜の枝を見たとき、白っぽい花の一輪一輪がはっきり見えて綺麗と思ったのが記憶初めの桜だった。それからどのくらいの桜を見てきたことか。入学式の桜、送別会の桜、花見の場所取りに行った土手の桜、近所に咲く庭桜。花を見つめる、見上げる、愛でる。毎年決まって、桜を見続けてきた行為は確かに間違い探しに似ているかもしれない。『猫じゃらし』(2010)所収。(三宅やよい)


April 1242012

 エリックのばかばかばかと桜降る

                           太田うさぎ

味もなく面白い、と俳句を表する言葉があるけど、この句はナンセンスでリズムがよくて、可愛くて面白い。東京へ来て「ばか」という言葉に人を見下す視線を感じていた。関西弁で「あほやなぁ」と言われても「ほんと、あほやね」と軽く返せるのに東京言葉で「ばか」と言われるとその冷たさにしばし落ち込む。そんな言葉も「ばかばかばか」と三連発で続けると、女の子が小さなこぶしを振り上げて気のきかない恋人の背中なんかをたたいているようでチャーミングに思える。それに加え「桜降る」なのだから「ばかばかばか」が桜の花びらの舞い散る擬音語のようにも思える。この名前がよくある男名だと妙に現実臭くなるが、「エリック」と嘘っぽい名前に言葉のモードを飛ばしたことでマンガチックな雰囲気を醸し出している。独特の軽みを持つこの作者の句は楽しい。「時速百キロつぎつぎと山笑う」「春深し立てば畳につんのめり」『俳コレ』(2011)所載。(三宅やよい)


April 1942012

 手をのこしゆく人ありて汐干狩

                           阿部青鞋

干狩は春の大潮の頃に行われることが多いと歳時記にある。小さなシャベル片手にズボンを捲り上げて遠浅の海に入る。海は沖へ遠のき、あちらこちらに腰をかがめて黒い砂土を掘る人たちがいる。これは私が二、三十年前に見た牧歌的風景なのだけど、今頃はどうなのだろう。都会近くの海岸では人・人・人の混雑ぶりで、お土産にビニール入りで販売されている浅利を買って帰るといったところだろうか。掲句は汐干狩の人々が去り、静かな海岸の景色に戻った「汐干狩その後」の印象。それも砂浜に残された手の窪みとか手形ではなくて、貝を掘っていた無数の人々の手が残されている光景を想像してしまう。青鞋の句には身体の部位を「もの」として突き放して扱う句が多い。普段は自分に属するものとして意識しない身体の部位を対象化することで知っているはずの風景に不協和音が生じる。そうして俳句の範疇で囲われた季語も違った音色を奏で始める。〈てのひらをすなどらむかと思ひけり〉〈人の手ととりかへてきしわが手かな〉「現代俳句協会HP」所載。(三宅やよい)


April 2642012

 春の雨街濡れSHELLと紅く濡れ

                           富安風生

を運転しなくなってからガソリンスタンドにとんと縁がなくなった。昔はガソリンの値段に一喜一憂したものだが、車を手放してからはガソリンスタンドがどこにあるのやら、道沿いの看板を気に留めることもない。この句は昭和18年に出された句集『冬霞』に収録されているが、当時は車を持っていること自体、珍しい時代。しかも日米開戦後、英語が敵国語として禁止されていく状況を思うと挟みこまれた英単語にモダンという以上に意味的なものを探ってしまう。しかしそうした背景を抜きにして読んでも春雨とSHELL石油の紅いロゴの配合はとてもお洒落だ。同じ作者の句に「ガソリンの真赤き天馬春の雨」があるが、こちらはガソリンと補足的な言葉が入るだけに説明的で、掲句の取り合わせの良さにはかなわないように思う。SHELL石油がなくなったとしても蕪村の「春雨や小磯の小貝濡るるほど」が遠く響いてくるこの句は長く残っていくのではないだろうか。「日本大歳時記」(1982)所載。(三宅やよい)


May 0352012

 あふれさうな臓器抱へてみどりの日

                           小川楓子

われてみるとおなかの中には胃から腸から肝臓やすい臓にいたるまでさまざまな臓器がひしめいている。普段健康でいると、見えない臓器なんぞ気にもとめないが、一つ不調になるだけでたちまちのうちに日常生活に支障をきたすだろう。内視鏡検査で咽喉から胃壁に降りてゆくカメラで薄赤い内部を見る機会があったが変なものが見えてしまったら怖いのでひたすら視線を逸らして検査に耐えていた。輝く新緑のただなかに立つ人間それぞれが、あふれそうな臓器を抱えていると思うと少し薄気味悪く思える。「あふれそうな」は臓器とみどりと双方にかかっているが、みずみずしい季節を象徴する「みどり」と「臓器」の生々しさと結び付けることで予定調和的なリリシズムから一歩踏み出している。『超新撰21』(2010)所載。(三宅やよい)


May 1052012

 泰山木けふの高さの一花あぐ

                           岸風三楼

きな樹木に咲く花は下から見上げても茂る葉に隠れてなかなか気づかないものだ。俳句をやり始めたおかげでこの花の名前と美しさを知ったわけだけど、今ではこの時期になると職場近くにある泰山木の花が開いたかどうか昼休みに確かめにゆくのが習慣になった。木陰にあるベンチに弁当を広げながら、ああ、あの枝の花が開きかけ、2,3日前に盛りだったあの花はまだ元気、枝の高さを追いながらひとつひとつの花を確かめるのも嬉しい。青空の隙間に見えるこの花の白さは美しく、名前の響もいい。原産地は北米で、渡来は明治以後とのこと。「一花あぐ」という表現が下から見上げる人間の思惑など気に掛けず天上の神々へ向けて開いているようで、超然としたこの花の雰囲気を言い当てているように思う。『岸風三樓集』(1979)所収。(三宅やよい)


May 1752012

 終りから始まる話青葉木莵

                           朝吹英和

き出しから、終わっている話ってあるなぁ、とこの句を読んでそんな小説の書きだしを思い出してみた。結末は予想されないけど、何かしらことが終わった回想で筋を追う形式のものか、コロンボや古畑任三郎のように犯人も結末も提示した中で話が始める推理物か。ともかくも、後ろから読み手が展開を追う話だろう。暗闇でずっと目を開けて、鋭い爪で獲物をとらえるふくろうは知の神とされていて、ギリシャの女神アテナイの使いでもある。何もかも知っている青葉木莵の低い鳴き声で神秘的なドラマが展開される。「夏燕王妃の胸を掠めけり」「降り注ぐラヴェルの和音新樹光」など古典や音楽から題材をとった句が多いこの句集全体の語り手も青葉木莵なのかもしれない。『光の槍』(2006)所収。(三宅やよい)


May 2452012

 枇杷熟れてまだあたたかき山羊の乳

                           三好万美

の昔、牧場で飲む牛乳はおいしいと搾りたての牛乳を飲まされた。だけどアルミの容器に満たされた液体は、むうっと生臭い感じがして苦手だった。多分生き物の体温がぬるく残っているのが嫌だったのだろう。回虫がついていると洗剤を使って野菜を洗うのがコマーシャルで流れていた時代だ。人工的なことが洗練されているという思い込みがあったのかもしれない。掲句では真っ白な山羊からほとばしりでる乳と枇杷の明るい橙色のコントラストが素敵だ。銀色の生毛に包まれた枇杷も暖かかろう。山の斜面に山羊を遊ばせ乳を搾る生活が残っている地域ってあるのだろうか。そんな牧歌的風景があるなら見て見たい。『満ち潮』(2009)所収。(三宅やよい)


May 3152012

 銀座にて銀座なつかしソーダ水

                           井上じろ

正時代から昭和にかけて銀座は流行の最先端の町であった。地方都市の駅前繁華街にはその土地々の名前を冠した銀座が続出したという。そういえば転勤先の山口、鹿児島、愛知それぞれの町の銀座商店街を歩いた覚えがある。本家本元の銀座ではいつ行っても華やかな雰囲気にあふれている。電線のない広い空と石畳の舗道にお洒落な店の数々。だけど、私が知っているのはここ10年ばかり銀座で、古きよき銀座の記憶はない。「銀ブラ」という言葉が消えたように、この町を愛した人には外国のブランド店がずらりと並ぶ銀座には違和感があるかもしれない。ソーダ水には「一生の楽しきころのソーダ水」(富安風生)という名句があるが、昔なつかしいソーダ水を飲みながら、「銀座も変わったものね」と年配の婦人が話している様子を想像してしまった。『東京松山』(2012)所収。(三宅やよい)


June 0762012

 箱庭と空を同じくしてゐたり

                           岩淵喜代子

庭は箱の中に小さな木や人を配し、川をしつらえ橋を渡したミニチュアの庭だが、どうして夏の季語になっているのだろう。歳時記の皆吉爽雨の解説によると箱庭を作るのは子供の夏の遊びの一つと書かれており、「古い町並みを歩くと軒下などに箱庭がおかれているのを見かけて、日本人の夏を感じる」とある。この頃は心理療法として箱庭を作るのが治療のひとつになっているようだけど、夏空の下で箱庭を作る遊びも楽しそうだ。箱庭を覗きこむ自分の頭上にも箱庭と同じ空がある。空から俯瞰すると自分がいる風景も覗きこんでいる箱庭の風景と同様の小ささで、人という存在がいじらしく思える。『白雁』(2012)所収。(三宅やよい)


June 1462012

 ままこのしりぬぐひきつねのかみそりと

                           西野文代

物の固有名詞をならべただけなのにまるでお話のようだ。「ままこのしりぬぐい」はタデ科の一年草で、先っちょを紅く染めた小花が固まって咲いていると植物図鑑にはある。道端で通り過ぎても言い当てることはできそうにないが、どうしてこんな面白い名前がついているのだろう。きつねのかみそりは飯島晴子の「きつねのかみそり一人前と思ふなよ」が有名。こちらはどこかの木の茂みでホンモノを見たことがあるが、地面からひょろっと花が突き出た特異な姿だった。有毒植物ということで、こんな名前がついているのだろうか。二つ並べると「ままこの尻」、の柔らかさと、「キツネとかみそり」の配列に危うさと痛さが感じられる。嘱目で作った句かもしれないが、取り合わせた言葉が呼び寄せる不思議な世界を直観的に感じとるセンスがないとこんな句は出来ないだろう。『それはもう』(2002)所収。(三宅やよい)


June 2162012

 無垢無垢と滝に打たれてをりしかな

                           山崎十生

禅を組むのも、断食道場へ通うのも、滝に打たれるのも自分の中に巣くう煩悩を流して生まれ変わりとはいかないまでも、まっさらな自分になりたいがためだろう。どのぐらい効果があるかわからないが、「無垢無垢」と念じつつ、轟音とともに落ちてくるしぶきの冷たさに耐えながら立っている様子を思うと何だか笑えてくる。真面目であればあるほど「無垢無垢」が擬音語のようでもあり、念仏のようでもあり、押さえても押さえても湧き出てくる煩悩のようで、何だかおかしい。那智の滝や華厳の滝の如く遥か上方から垂直にたたきつけるのは怖すぎるけど、穏やかない滝なら、ムクムクと打たれてみるのもいいかもしれない。『悠々自適入門』(2012)所収。(三宅やよい)


June 2862012

 象の頭に小石のつまる天の川

                           大石雄鬼

の川とは「微光の数億以上の恒星から成り、天球の大円に沿って淡く帯状に見える」ものと広辞苑に解説がある。インドでは象の頭をもった神様は富と繁栄、知恵を授けてくれる幸運の神様という話。象がとても賢い動物からだろう。その象の頭に小石がつまるという発想が面白い。なるほど、ゴツと天辺が飛び出したアフリカ象の頭の恰好は、なるほど小石を詰めた袋のようだ。しかも小石の詰まった頭と夜空に輝く天の川の取り合わせは、象の頭に詰まった小石が弾けて天の川になったかの如く不思議な気分になる。この作者の句は言葉の繋がりかたが独特で屈折した文脈がステレオタイプな季語の見方を少し変えてくれる。「舟虫の化石にならぬため走る」「蛍狩してきし足を抱いて眠る」『現代俳句最前線』(2003)所載。(三宅やよい)




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