このところテレビではなくパソコンでばかり映画を観ている。(哲




2012ソスN1ソスソス11ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 1112012

 年はじめなほしかすがに耄(ぼ)けもせで

                           坪内逍遥

しかすがに」は、「然(しか)す」+「がに」(助詞)で、「そうは言うものの」といった意味をもつ。若いときはともかく、わが身に何が起こっても不思議はない六十、七十代になれば、おのれの「耄け」のことも頭をかすめるのは当然である。だから耄けている人を見ると、他人事だと言って見過ごすことはできなくなってくる。「明日はわが身」である。掲句は逍遥が何歳のときの句なのかはわからない。逍遥は六十歳を過ぎた頃から短歌や俳句を始めたという。昔は年が改まることで歳をとった。だから大晦日を「歳とり」とも呼んだ。年が改まったけれど耄けていないという安堵と妙な戸惑い。もっとも耄けた本人に耄けた自覚はないだろうけれど。逍遥は「元日におもふ事多し七十二」という句も残しているが、七十五歳で亡くなっている。人間誰しも死ぬことは避けられないし、致し方ないけれど、どんな死に方をするかが問題である。晩年の立川談志もそう言っていた。誰しも耄けたくはないだろうが、予測はつかない。高齢になって心身が意のままにならないのに、いつまでも耄けないというのも、傍から見ていてつらいことだと思われる。いかがだろうか? 逍遥にはそれほどすぐれた俳句はないが、もう一句「そそり立つ裸の柿や冬の月」を挙げておこう。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


January 1012012

 落涙に頁のちぢむ寒昴

                           田代夏緒

は一旦濡れると一見しなやかに見えながら、乾いてからおどろくほど醜くでこぼこする。水を含んだ紙の繊維が好きな形に戻ってしまう理屈だが、それが涙となると単なる水滴とは違った表情を見せる。掲句では、ぽとりと本の上に落ちた涙を振り払うように目を転じると、窓の外には星が輝いている。それが鋭く輝く寒昴であることで、しめっぽい情から切り離すことができた。ところで、ずっと以前に読んだ本の、思いがけない場所で自分の涙の跡に再会することがある。その時とはまったく違う人物に感情移入していることに、時の流れを感じながら、当時の季節や部屋のカーテンの色など、まるで涙で縮んだ紙がほどけていくように、思い出がたぐり寄せられてゆく。「月の匣」(2011年3月号)所載。(土肥あき子)


January 0912012

 猿が岩を叩いてやまず「春よ来い」

                           鎌倉佐弓

の「春よ来い」には、狂気に通ずる不気味な願いを感じる。童謡の「あるきはじめた みいちゃん」などのように、ほのぼのとした感じはない。猿が岩を叩いている。いっこうに叩くのをやめる様子はない。見ていると、なにかただならぬ猿の仕草に、作者はだんだん釣り込まれていく。いったい、この猿は何を思って、そんなにも執拗に叩きつづけているのだろう。単純に空腹だからなのか、どこか身体が不調なのか、それとも……。むろん猿は何も言わないから、作者は推測するしかない。わからないまま、作者はあてずっぽうに「春よ来い」とつぶやいてみた。と、この言葉が眼前の猿の行為と結びついたとき、そこに立ち現れたリアリティ感にびっくりしている。なるほど、猿は春の早い到来を祈って、懸命に岩を叩きつづけているのかと納得のいく気がしたのだった。むろんこれらは作者の憶測であり想像でしかないけれど、こういうことは日常的な意識処理としてはよく起きることだ。そして、この猿の願いに導かれるようにやってくる春は、決して牧歌的なそれではなく、禍々しい季節なのではあるまいか。一読者の私は、そんな想像までしてしまった。『海はラララ』(2011)所収。(清水哲男)




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