経済のグローバル化に伴い国家の基盤は弱くなる。むろん国歌も。(哲




2012ソスN1ソスソス19ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 1912012

 鳩であることもたいへん雪催

                           須原和男

和の象徴の鳩もこのごろは嫌われものだ。マンションのベランダや家の軒先に住みつかれたら、糞で真っ白になるし、鳩が媒介して持ってくる病気もあるという。駅のプラットホームをそぞろ歩きする鳩はのんきそうだが、見上げれば鳩が飛びあがって羽を休めそうなところに刺々しい針金がここかしこに張り巡らされている。むかし伝書鳩を飼うブームがあったが、今のドバトはそのなれの果てかもしれない。底冷えのするどんよりとした雪催の空の下、鳩も苦労している。人であることも大変だけど、鳩で在り続けるのも大変だよなぁ、だけど、餌をやったが最後居つかれても困るしなぁ。と、寒そうに肩をすぼめながら鳩を眺める作者の気持ちを推し量ってしまった。『須原和男集』(2011)所収。(三宅やよい)


January 1812012

 冬の海吐き出す顎のごときもの

                           高橋睦郎

つも思うことだけれど、タイもヒラメもシャケも魚はいずれも正面から見ると可愛らしさはなく、むしろ獰猛なつらがまえをしている。目もそうだが、口というか顎にも意外な厳しさが感じられる。アンコウなどはその最たるものだ。掲句の「顎」は魚の顎である。ここでは魚の種類は何でもかまわないだろうが、「冬の海」と「顎」から、私はアンコウを具体的に思い浮かべた。陸揚げされてドタリと置かれた、あの大きい顎から冬の海をドッと吐き出している。獰猛さと愛嬌も感じられる。深海から陸揚げされた魚は、気圧の関係でよく舌を口からはみ出させているが、臓物までも吐き出しそうに思えてくる。もちろんここは春や夏ではなく、「冬の海」でなければならない。「顎のごときもの」がこの句に、ユーモアと怪しさのニュアンスを加えている。睦郎本人は「大魚の顎に違いないが、はっきりそう言いたくない気持があっての曖昧表現」と自解している。原句は「冬の海顎のごときを吐き出しぬ」だったという。下五を「ごときもの」としたことで、「曖昧表現」の効果が強調されて句意が大きくなり、深遠さを増している。それにしても「ごときもの」の使い方は容易ではない、と改めて思い知らされた。睦郎には、他に「髑髏みな舌うしなへり秋の風」という傑作がある。『シリーズ自句自解Iベスト100・高橋睦郎』(2011)所収。(八木忠栄)


January 1712012

 裸木よなきがらよりはあたたかし

                           島谷征良

間以外で裸を使う言葉には、飾りないことやむきだしの心細さ、包み隠すことのない透明性が込められる。ことに「裸木」とはなんと痛々しい呼び名であることかと思っていた。「冬木」にも「枯木」にも感じることのない、身のすくむような寒さが同居する。しかし掲句はその裸木でさえ、それでもなきがらよりはあたたかいという。これによって震えの象徴である裸木が、それでも生きている木であることを認識させる。今は寒風にさらされている裸木も春になれば必ず芽吹く。上五の切れにふたたび訪れる春を思い、また大切な人を失ったことへの慟哭が宿る。枯れては芽吹くことを数千回も繰り返すことのできる樹木にひきかえ、人間の生とはなんとはかないものだろう。昨年末、舅が亡くなった。若い頃、立山連峰で歩荷をしていた頑健な身体でも病魔には勝てなかった。静かに盛りあがる真っ白いシーツが、まるで雪山の稜線のように見えた。『舊雨今雨』(2011)所収。(土肥あき子)




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