残念ですが、松下育男さん、本日で降板です。長い間ありがとう。(哲




2012ソスN1ソスソス29ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

January 2912012

 分針は太き泪となる日暮

                           守谷茂泰

しかに分針というのは、秒針や短針よりも太くできています。つまりそれだけ人が見やすいようにしてあるということです。よほどのことがないかぎり、秒針を見る必要などありませんし、また今が何時かはたいてい把握していますから、短針を見る機会もあまりありません。つまり時計というのは、ほとんどの場合分針を見るということなのです。それだけ分針は、人によりそった「時」といえます。その分針が泪のようだというのですから、垂直に垂れ下がっているのでしょう。つまり「30分」を指しており、日暮れというのですから、時刻は「5時半」なのでしょうか。ちょうど一日の仕事を終えて、帰り支度をしている時刻です。一日に起きるべきことはひととおり起き、どんな日だったかの結論が出ている頃です。掲句にあるいちにちは、おそらく辛いものであったのか、あるいは切ないものであったのでしょう。帰り道に腕時計を見る目には泪がたまっています。さて時刻はというと、分針はその太さの中で、これも目にいっぱいに泪をためています。分針のゆっくりとした動きが、なぜか作者の不器用な生き方に重なって見えてくるのです。それでも時がたてば分針は、確実に上に向いて動いてゆきます。同様に作者の思いも、分針を追いかけるようにして、泪をぬぐえるところへ移ってゆければと、思います。『現代歳時記』(1997・成星出版)所載。(松下育男)


January 2812012

 いつさいの音のはてなり雪ふるおと

                           奥坂まや

週月曜日の夜九時過ぎ位か、障子を開けると雪になっていた。雪の予報は出ていたのでやっぱりと思ったが、それにしても久しぶりに見る霏霏と降る雪だった。また大げさなと、忠栄様の母上に叱られそうだが、つぎつぎに落ちる雪に、つい口を開けて見とれてしまった。雨音が聞こえなくなると雪になっている、というのがふつうだけれど、降る雪を見ているといつも、雪を聞いている、という気分になる。その、おと、は確かに、耳に届く音ではなく、全身で感じる静かで賑やかな気配のようなものなのかもしれない。その夜の雪はすぐにまばらになり、それでも我が家のベランダには数センチ積もった。そして静かに眠ったまま、朝日に光りながら消えてしまった。『妣の国』(2011)所収。(今井肖子)


January 2712012

 今生に子は無し覗く寒牡丹

                           鍵和田秞子

者五十歳の作。子が無いという思いについての男と女の気持には違いがあるだろう。跡継ぎがいないとか自分の血脈が途絶えるとか、男は観念的な思いを抱くのに比して女性は自分が産める性なのにというところに帰着していくような気がする。そんな気がするだけで異性の思いについては確信はないが。同じ作者に「身のどこか子を欲りつづけ青葉風」。こちらは二十代後半の作。「身のどこか」という表現に自分の本能を意識しているところが感じられる。「覗く」はどうしてだろう。この動詞の必然性を作者はどう意図したのだろう。見事な寒牡丹を、自分の喪失感の空白に据えてやや距離を置いて見ている。そんな「覗く」だろうか。『自註現代俳句シリーズV期11鍵和田釉子集』(1989)所収。(今井 聖)

お断り】作者名、正しくは「禾(のぎへん)」に「由」です。




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