「三寒四温」といえば耳ざわりはよいが、要するに気温の乱高下期。(哲




2012ソスN2ソスソス26ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

February 2622012

 春山に向ひて奏す祝詞かな

                           高野素十

書に「三輪山」とあります。春山は、大和の国一之宮、大神(おおみわ)神社の神体山、三輪山です。神体山とは、山そのものが信仰の対象ということで、富士山を信仰する浅間神社、守屋山を信仰する諏訪大社など各地にみられます。春を迎えた三輪山の神々に向かって、神官たちが祝詞(のりと)を奏(そう)す神事を、作者・高野素十は記念写真を撮影するように手前に神官を置き、向こうに三輪山を配置した構図に収めています。この客観写生は、師・高浜虚子から受け継いだ骨法なのかもしれません。春の語源を「張る」とするならば、芽張り、芽吹く新生に向かって祝詞の言霊(ことだま)が感謝し、応援し、今年もよろしくと、お願いしているようです。二年前の春、一人で三輪山を登りました 。思った以上に勾配がきつく、市街地からほど近い登山口なのに山は深く、神体山ゆえ、道も整備されておらず、通常の山行以上にしんどい道のりでした。神域なのでカメラも飲食も禁止されていますが、それゆえ生態系がそのままの状態で保全されています。掲句から、人の言葉が山の植物に張りをもたらし、春の訪れが人を喜ばせるといった季と人との交感を聴きとれますが、これも遠景と近景を対置した構図のたまものでしょう。大神神社の巫女さんたちの髪飾りが清らげに美しかったことをつけ加えます。『高野素十句集 空』(1993)所収。(小笠原高志)


February 2522012

 蕗の薹見つけし今日はこれでよし

                           細見綾子

の句が好きだという知人がいて、その会話の記憶がある。こういう風に何気ないことに幸せを感じながら、日々を過ごし歳を重ねて行きたい、と言っていたように思う。今回『武蔵野歳時記』(1996)という句文集を読んでいて、再びこの句に出会った。故郷の丹波から、段ボール一杯蕗の薹が送られてきたことなどと共に、この句が書かれていたのだが「これは武蔵野のわが庭での蕗のとう。ただ一つだけ見つけて今日という日のすべてのことがこれでよいと思った」とある。この時の蕗の薹の存在は、何気ない小さな幸せというよりもっと強く、作者の日常の翳りを照らしたのだろう。送られてきた蕗の薹をひとつガラスの器に入れ、食卓に置き眺めていたという作者の、真っ直ぐなまなざしを思い浮かべた。(今井肖子)


February 2422012

 点滴一架日脚の長くなりしかな

                           石田波郷

い句からは多くの学ぶべきところがある。素朴なつくりに見えて凡句には及びもつかないところがある。点滴一架、まずこれが言えない。点滴瓶(袋)が下げてあって移動できるようになっている装置、これを「一架」で過不足なく言う。すごいなあ。次に大方の俳人なら「日脚伸ぶ」という季語をそのまま当てはめて安易に使いがち。それを「日脚の長くなりし」と言う。これも言えそうで言えない。もうひとつ。凡人は「かな」を名詞に付けて用いることが多いから「なりしかな」の何気なさが出せない。ことに近年の俳句にはこんな懐の深い表現はない。点滴の移動装置の影が見える。デッサンの確かさが「写生」の本意を示している。すんなり作ってあるようでいて創意も工夫も感覚もとてつもなく練られている。『酒中花以後』(1970)所収。(今井 聖)




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