2012N3句

March 0132012

 松林だっただっただっただった

                           広瀬ちえみ

月11日から一年がめぐろうとしている。あの日、あの時に家族や故郷を失った人たちの哀しみ、無念さは言葉に尽くしきれるものではないだろう。「だった」の繰り返しに、身近な松林を起点にあの津波で一瞬にして失われたあらゆる海岸の松林への思いが込められている。人がその木陰に憩い、海水浴に遊んだ松林は無残にもなぎ倒され二度と戻ってはこない。作者は仙台市在住の川柳人。震災当日は長年務めた学校で激しい揺れに襲われたと書いている。「何が起きたのかと思うような激しい揺れだった。それでも何が起きたのかわからないまま死ねないと思った。Sさんに助けられ廊下の窓から逃げた。」四階建の校舎はしなるように揺れ、グランドには亀裂が入り、建て増しした繋ぎ目が十センチ以上離れてしまったという。その後の混乱は想像に難くない。それでも遠くの地で無事を気遣う同人の暖かい呼びかけに応えつつ共に雑誌を編集し、3か月後に刊行した。「花咲いて抱き合う無事と無事と無事」「うれしかり生姜を下ろすことさえも」「垂人」15号(2011)所載。(三宅やよい)


March 0232012

 春の口紅三越の紙の色

                           須川洋子

快な配色。単純化されたものの配合。須川さんは楸邨門の中では数少ない「もの」派だった。「遠足の列大丸の中とほる」の田川飛旅子さんをひとつのお手本に学んだ。「寒雷」のような観念派の中の「もの」派は花鳥諷詠派がいう「もの」とはかなり違う。ほんとうに「もの」なのだ。神社仏閣老病死や季語の本意に依った「もの」ではなくて情緒をあらかじめ設定しない純粋な「もの」。そこらへんに転がっているあらゆる物象を対象とするのだ。周囲の圧倒的な数の「観念」派に抵抗する中で鍛えられた尖鋭的な「もの」派だ。須川さんが逝ってしまった。(「季刊芙蓉」2012・春・第91号)所載。(今井 聖)


March 0332012

 たらちねの抓までありや雛の鼻

                           与謝蕪村

の眼差しや口元などの句は見たことがあるが鼻は初めてで、思わず飾ってあるお雛様の鼻をしげしげと見てしまった。三越、と書かれた桐の箱に入ったこのお内裏様は私の初節句の時のものなので、今どきのお雛様より小さめで、顔の長さが2.2センチに対して鼻の長さは0.7センチ、鼻筋はすっと通って高く、私の指でも十分抓(つま)める。小さい頃お母さんが、高くなれ高くなれ、と鼻を抓んでやらなかったんだなあ、と作者に思わせるようなお雛様は、きっともっと愛嬌があって素朴でありながら、どこかさびしい顔立ちだったのだろうか。低い鼻にコンプレックスのある身としては、そのお雛様に親近感を覚えると同時に、そういえば同じDNAを持つ妹も、姪の鼻を抓んでいたなあ、けっこう真剣に、とふと思い出した。『新歳時記 虚子編』(1951・三省堂)所載。(今井肖子)


March 0432012

 特急の風が手伝う野焼きかな

                           矢野しげを

月21日、高知市から四万十川に向かう途中、土佐市の水車茶屋という渓流沿いの小さな茶店でうどんをいただいていました。鶏が放し飼いで、メジロが木に挿したみかんをつつきにやってくる、のどかな山あいです。店内には、俳句と短歌の短冊が貼ってあり、「満員の特急列車や雪しまく」「無人駅雪割桜の山近し」(しげを)の句に魅かれ、俳句手帖に書き写していると、茶屋のおかみさんが「お客さん、その俳句作った人、携帯で呼んであげるから」と言ってくださり、矢野しげをさんと出会いました。二十年以上の間、短歌を作られてきた方で、「無人駅に貨車連結の音絶えて引込線にゆれるコスモス」は、かつて、タバコの巻紙に混入する石灰石を輸送するために使用されていた引込線を偲ぶ歌です。 矢野さんは、氏のホームグラウンドであるJR土讃線・吾桑(あそう)駅で吟行中だったところを茶屋のおかみさんに呼び出されたしだいで、掲句は、2012年2月21日午後3時当日、出来たての句です。特急列車が轟音を立て、風切って無人の吾桑駅を通過する。沿線の野焼きは、一瞬、燃え盛る。矢野さんは、もう、六十歳を過ぎたとお見受けしましたが、鉄道を憧憬する心の炎は、少年です。「見ると感動し、感動すると見ます。永く短歌ばかりを作ってきましたが、生きている証を残すために、俳句を始めました。」一枚の短冊が、初めての土地で、初めての人を引き寄せてくれました。吾桑駅までご案内していただき、握手をして別れました。(小笠原高志)


March 0532012

 暗室に酸ゆき朧のありて父

                           正木ゆう子

ジカメの普及で、フィルム現像液の「酸ゆき」匂いを知る人も少なくなってきた。昔のカメラ・マニアは、撮影したフィルムを自宅で現像し、自宅でプリントしたものだった。私の父もそんな一人だったので、句意はよくわかる。「暗室」といっても、プロでないかぎりは、どこかの部屋の片隅の空間を利用した。私の父の場合は風呂場を使っていたので、入浴するたびに独特の酸っぱい匂いがしたものだ。戦争中にもかかわらず、私の国民学校入学時の写真が残っているのは、父が風呂場にこもって現像してくれたおかげである。句の「朧」は詠んだ素材の季節を指しているのと同時に、そんな父親の姿を「おぼろげ」に思い出すという意味が重ねられている。それを一言で「酸ゆき朧」と言ったところに、若き正木ゆう子の感受性がきらめいている。昔の写真は、カメラ本体を除いてはみなこうした手仕事の産物だ。おろそかにしては罰が当たる。……というような思いも、だんだんそれこそ「朧」のなかに溶けていってしまうのだろうが。『水晶体』(1986)所収。(清水哲男)


March 0632012

 きつぱりとせぬゆゑ春の雲といふ

                           鈴木貞雄

週は首都圏でも雪が降り、翌日は15度という落ち着かなさも春恒例のことではあるが、年々身体が追いつかなくなる。夏の厳しさも、冬の寒さもさることながら、かつてもっとも過ごしやすいと思っていた春が、一定しない陽気やら花粉やらでもっとも厭わしい季節になっていることにわれながら驚いている。正岡子規が「春雲は絮(わた)の如く」と称したように、春の雲は太い刷毛でそっと刷いたように、あるいはふわふわとしたまろやかさで身軽に空に浮かぶ。見つめていれば半透明になり、端から青空と一体化してしまうような頼りなさに思わず、「雲は雲らしく、もりもりっとせんかい」と檄を飛ばしたくなる心があってこそ、掲句が成り立つのだと思う。青春時代にはおそらく出てこない感情だろう。とはいえ、これこそ春の雲。春の空がうっとりとやわらかくかすんでいるのは、溶け出した雲のかけらを存分に吸い込んでいるからだろう。『森の句集』(2012)所収。(土肥あき子)


March 0732012

 男衆の声弾み雪囲い解く

                           入船亭扇辰

囲いは庭の樹木や家屋を雪から守るために、板や木材などでそれらを囲うもの。晩秋の頃の作業である。雪囲いを丹精こめて作ったのに、暖冬で雪が少なくて空振りに終わってしまうなんてことも実際にある。また逆に「長期予報で、雪はたいしたことないらしい」と油断して、逆にえらい目に遭うということもある。雪もグンと減った春先になって雪囲いを解くのだから、作業をする男たちの声は春がようやく到来したという喜びと、これから野良仕事を始められることに対する意気込みとで、テンションはあがっている。掲句からは、その躍動感が十分に伝わってくる。「男衆」という呼び方も聞かれなくなった。扇辰は当方と同じ雪国長岡の出身だから、ここは雪国の春先の実感があって詠んでいる。扇辰の落語の師匠は入船亭扇橋という、本確的な句を詠むことと、淡々とした芸風でよく知られている。落語界では正統派の中堅である扇辰、彼の活躍は今さら言うまでもない。落語家仲間で組むトリオのバンドの公演では、ドラムスを叩きヴォーカルもこなす茶目っ気のある才人。俳句は師匠の影響で始めたが、気の合った仲間と句会を楽しんでいるようだ。掲句については「雪囲い解く」という季語だけで七音、「残り十音で表現するのはむずかしいです。苦しまぎれにひねり出しました」と正直に述懐している。他に「恩師訪ううぐいす餅の五つもて」がある。「新潟日報」(2012.2.8)所載。(八木忠栄)


March 0832012

 青き踏む感電防止靴のまま

                           箭内 忍

電防止は帯電防止ともいい、電気工事の作業中にはくためのものらしい。この言葉をネットで検索したところ、神戸の「サヌキ」という靴メーカーの説明書きに行きあたった。「この靴は体内に蓄積される静電気を除去する為のもので、人体の静電気帯電が爆発、火災、電撃のような事故及び災害、又は生産障害の原因となるような作業及び場所で使用されます」自分の身体の中に蓄積された静電気が発火原因になるとはおそろしい。そんな靴を履いて危険な場所で作業している人たちは一刻も気持ちが緩められないだろう。掲句を読んだときには地面から萌え出てくる草の勢いに感電しないように、と想像して読んだので、自分の身体から発生する静電気を除去するための靴というのが意外だった。「青き踏む」に「感電」とくると、萌え出る草にスパークしてしまいそうだけど、それを「防止靴」で打ち消すヒネリが仕込まれている。それが為、この季語が持っている開放的気分とは違った危うさがこの句から感じられるのだろう。『シエスタ』(2008)所収。(三宅やよい)


March 0932012

 畦焼の祖父が火入れの責を負ふ

                           谷口智行

取県米子市に住んでいたときの公舎の前は自衛隊の演習地だった。別に柵があったわけでもなく、向かいの家々までは霞むほどの距離があった。ときどき火炎放射器の実演などもあったから今から思うと危険な野原だった。春に父が庭に放った火が演習地に燃え移り父が叫びながら走り回り消防車まで来た記憶がある。野焼、畦焼はかくのごとく危険なものであるということを実感したのである。「祖父」は風の向きや強さなどを計算に入れながら火を入れるのだろう。煙の匂いなどもただ茫々と懐かしい限りである。『日の乱舞物語の闇』(2010)所収。(今井 聖)


March 1032012

 燃やすべき今日の心や椿燃ゆ

                           上野 泰

らずに落ちることを詠まれ続ける椿だけれど、この句の椿はあかあかと燃えている。燃えるような赤い花、というともっと明るいイメージだが、深い緑の葉陰に一輪ずつのぞく椿の赤にはまた、独特の表情がある。燃やすべき、と詠んだこの時五十一歳の作者、椿のひたすらな赤にかきたてられるように何を思ったのだろうか。今日は三月十日、ちょうど一年が過ぎる。今こうして、いつ何が起こるかわからず、明日が来るのかさえ不確かな日々の中に暮らしていると、燃やすべき今日の心、という言葉がより一層切実に迫って来る。『城』(1974)所収。(今井肖子)


March 1132012

 雲雀より空にやすらふ峠哉

                           松尾芭蕉

人芭蕉が、雲雀(ひばり)より上の空にやすらいだ実感の句です。元禄元年(1688)の春、『笈の小文』の旅のなか、「臍(ほぞ)峠」、奈良県桜井市と吉野町の境にある峠の句です。標高約700mの峠の頂上から一面の麦畑を見渡していると、雲雀がはるか下の方で鳴いている、しぜん、笑みがこぼれます。ところが、翌元禄二年(1689)刊の『曠野』では、「空に」を「上にやすらふ」と改めています。なぜでしょう。いくつか考えてみました。一、私は当初、「上に」よりも「空に」のほうが好みでした。表現が洒落ているからです。しかし、芭蕉は、そこにあざとさを見て、「上に」と通俗的な表現に改めたのではないでしょうか。二、「空に」という表現には広がりがあり、解放的な気分にさせる一 方で、「上に」とすると雲雀との関係が結びつきやすくなります。空間的な広がりよりも高低差を示したかったからではないでしょうか。三、「雲雀より空に」とすると句の起点が「雲雀」になります。つまり、峠に着いたときの視点からこの句が始まります。一方、「上に」の場合は、句の起点が雲雀より下の里にあるのではないでしょうか。里を歩いているとき、雲雀を上に見あげて聞いていたのが、いまや雲雀の高さをはるかに越えて、この峠まで辿りついた登高のプロセスを含意しているように思われます。芭蕉の推敲を推測しました。『芭蕉全句集』(角川ソフィア文庫)所収。(小笠原高志)


March 1232012

 春宵や夫に二人の女客

                           石田幸子

は、五ツ戌の刻(午後八時)から五ツ半(午後九時)までを「宵」といったそうだが、いまでは夕暮れあたりから午後九時くらいまでをそう呼んでいる。寒い冬もようやく去って、気温が高くなってきた分、なんとなくはなやいだ気分が漂う時間だ。そんなある春の宵に、珍しく夫に女客が訪れてきた。ただ、客は二人というのだから、一人とは違って、深刻な用向きとは無縁のようだ。作者は二人をもてなすために、台所に立っているのだろう。夫のいる部屋からは、時おりにぎやかな笑い声なども漏れ聞こえてくる。そんなはなやぎの場から少し離れている作者の胸の内には、はなやぎをそのまま受け入れる心と、その輪に入れないでいるためのジェラシーっぽい心とが交錯しているのだ。いかにも春の宵らしい、ちょっと不安定な心理の動きが背後に感じられて、ひとりでに微笑が浮かんできた。『現代俳句歳時記・春』(学習研究社・2004)所載。(清水哲男)


March 1332012

 あたたかな女坐りの人魚の絵

                           河内静魚

座りとは、正座から崩した足のかたちで、片方に斜めに流す横座りや、両方に足を流したあひる座りなどを指す。人魚の絵はみな横座りである。腰から下が魚なのだから横座りしかできないのは当然なのだが、では男性の人魚はどのように座るのだろうと不思議に思って探してみると、はたして腹這いか、膝のあたりを立てた体育座りをしていた。やはりなよやかな女性を感じさせる座り方はさせられないということだろう。よく知られているコペンハーゲンの人魚姫の像が、憂いを込めて投げかける視線の先はおだやかに凪ぐ水面である。たびたび海上に浮かび、恋しい王子の住む城を眺めたのち、引きかえに失うことになる海の生活を愛おしんでいるのだろうか。人魚姫が人魚であった時代は、愛に満ち、あこがれと希望にあふれた時代だったのだと、あらためて思うのだ。〈春風といふやはらかな布に触れ〉〈風船の空にぶつかるまで昇る〉『夏風』(2012)所収。(土肥あき子)


March 1432012

 炬燵今日なき珈琲の熱さかな

                           久米正雄

月中旬にもなって炬燵の句?――と首をかしげるむきがあるかもしれない。けれども、少し春めいてきて暖かくなったからといって、さっさと炬燵やストーブを片づけることにはなかなかならないものだ。しばらく暖房で過ごしてきたことの惰性もあるし、北の地方ではそろそろ片付けていい時季であっても、まだ寒さが残っている。(今年はいつまでも寒い。)炬燵を取り去った当初はがらんとして、部屋にはどこかしら寒々しさが漂う。そんな時にすする珈琲の熱さは、ひとしお熱くありがたく感じられるだろう。熱い珈琲カップを、両手で押しいただいているといった様子が見えてくる。そうやって人々は徐々に春に馴染んで行くわけだ。「炬燵」という古い語感と、しゃれた語感の「珈琲」の取り合わせに注目したい。また「今日炬燵…」ではなく、「炬燵今日…」とした語法によって「炬燵」が強調され、リズムも引き締まった。正雄は三汀と号し、俳句の本格派でもあった。他に「綾取りの戻り綾憂し春の雨」がある。平井照敏編『新歳時記・春』(1996)所収。(八木忠栄)


March 1532012

 ふらここを乗り捨て今日の暮らしかな

                           野口る理

さい頃はぶらんこほどステキな遊具はないと思っていた。学校のぶらんこはいつも順番待ちで心ゆくまで楽しめないので学校が終わると遠くの公園まで自転車で遠出してとっぷりと日が暮れるまでぶらんこを漕ぎ続けたものだ。ぶらんこの板に乗り、勢いをつけて地上を漕ぎ離れると何だか空に近くなり、高く高く耳元で風が鳴るのも心地よかった。おとなになって戯れに乗ってみたことは何度かあるけど、子供のときに感じた爽快感とは程遠いものだった。遠い幼年期の思い出が薄い光に包まれているように、ぶらんこもすぐそこにありながら大人にとっては手の届かないもののようだ。「ぶらんこを乗り捨て」「今日の暮らし」いう中七の句跨りの切れに、単純な時間の経過ではなく、幼年期からおとなになるまでの時間的隔たりが凝縮されている。『俳コレ』(2011)所載。(三宅やよい)


March 1632012

 朝靄に梅は牛乳より濃かりけり

                           川端茅舎

乳はちちと読むのだろう。牛乳の白と比較しているのだから梅は白梅である。二者の比較のみならず朝靄もこれに加わるので三者の白の同系色比較。色の濃さは朝靄、牛乳、梅の順で濃くなる。僕らも日頃装いの配色にこんな計らいをする。思いの開陳。凝視。リズム。象形。比喩等々、表現手法はなんでもありで、その中に色彩対比もある。川端龍子の兄である茅舎は日本画を藤島武二や岸田劉生に学んだ本格派。この色彩構成はさすがという他ない。『華厳』(1939)所収。(今井 聖)


March 1732012

 サフランの二つ咲けども起きて来ず

                           遠藤梧逸

のサフランはハナサフラン、クロッカスのことだろう、昭和四十七年三月十一日の作。並んで〈シャボン玉ふと影消してしまひけり〉があり、その前書には「発病一時間にして空し」と。あまりにあっけなく逝ってしまった妻、呆然とした喪失感に包まれている作者にとって、クロッカス、というどこか弾んだ響きは、この時の心情にはそぐわなかったのだろう。そして、二つ咲けども、はやはり、二つ、なのであり、一つ、では、時間が感じられず、三つ、では長すぎる。『青木の実』(1981)と題されたこの句集、自筆の句と題字が、少しくすんだ柔らかい緑で、実、の一字だけがしっとりとした赤という、素朴だけれど美しい装丁の一冊である。(今井肖子)


March 1832012

 鶯のけはひ興りて鳴きにけり

                           中村草田男

の時、草田男は鶯を見ているのでしょうか。見ているならば、じっと観察しながら、鳴き始める前の「けはひ」を注視しているのでしょう。この時、草田男は、鶯を見ていないならば、静かに耳を澄まして鶯の「けはひ」にじっと耳を傾けていたのでしょう。この時、たぶん、世界で最も静かな場所である耳の中では、鶯の鳴き声を受けとめる準備がなされていました。「森の中で鳥が鳴く前には鳴き声の予感がある。」と、指揮者小澤征爾は言います。「楽器を演奏する時には、鳥が鳴く前の兆しから始めなければならない。」と、演奏者たちに指示します。鶯の鳴き声が求愛のそれならば、鳴く前のとまどい、逡巡、ためらいが「けはひ」となって、静かな耳の持ち主ならば、聴きとることができるのかも しれません。数年前、サントリーホールで聴いた小澤征爾のEroicaに、最初の30秒で涙を流しましたが、それも、演奏の前の「けはひ」から、すでに、やられていたのかもしれません。『日本大歳時記 春』(講談社版1982)所載。(小笠原高志)


March 1932012

 悲しみの牛車のごとく来たる春

                           大木あまり

学時代からの友人が急逝した。絵の好きな男で、スケッチのために入った山で転倒し、それが致命傷になったらしい。いつだって訃報は悲しいが、春のそれは芽吹き生成の季節だけに、虚を突かれたような思いになる。悲しみが重くのしかかってくるようだ。句の「牛車(ぎっしゃ・ぎゅうしゃ)」は、平安時代に貴族を乗せた乗り物のことだろう。きらびやかな外観は春に似つかわしいが、逆に悲しみの重さを増幅するように、ゆっくりとぎしぎしと人の心に食い入ってくるようだ。最近出た『シリーズ自句自解I ベスト100・大木あまり』に、悲しみから立ち上がれないときには「俳人の木村定生さんが『だらーんとしてればいいんですよ』と言ってくれた」とあった。「水餅のように悲しみに沈んでいれば良いのだ。そのうちそれに疲れて浮かんでくるにちがいない」。なるほどと思い、ひたすら水餅のようでありたいと願う今年の春の私である。『火球』(2001)所収。(清水哲男)


March 2032012

 白椿亡き子の臍の緒五十年

                           結城蓉子

年、民族学者の友人から仙台にある「冥婚」という風習を聞いた。亡くなった子供が20歳になったとき、あの世で結婚したとする追善供養である。亡くなったのちもなお、わが子が幸せに暮らしてほしいと願う親の心にひたすら胸を打たれる。掲句は白椿という清らかな花を眺めながら、臍の緒が収められている桐の小箱のことに思いを馳せる。指折り数えるまでもなく、もう50年という月日が流れているのだ。いつまでも幼いままの子の顔かたちをそっと胸の奥の小箱を開いて懐かしむ。生きるとは、あらゆることに区切りをつけながら過ごす日々をいうのだろう。暑さ寒さも彼岸まで。一歩一歩ゆっくり春になっていく。『アウシュビッツの風』(2011)所収。(土肥あき子)


March 2132012

 春寒やしり尾かれたる干鰈

                           村野四郎

年の冬は例年以上に寒さが厳しかったから、春の到来は遅い。したがって、桜の開花も遅いという予報である。カレイに限らずアジでもメザシでも、魚の干物の尾はもろくていかにもはかない。焼けば焦げて簡単に砕けるか欠け落ちてしまう。(私は焼いた干物のしり尾は、食べる気になれず必ず残す。)掲句の場合のカレイは柳カレイだろうか。ならば尾はいっそうもろい。まだ寒さが残る春の朝、食膳に出されたカレイの干物にじっと視線を奪われながら、食うものと食われるもの両者の存在論を追究している、といった句である。いかにも新即物主義(ノイエ・ザハリヒカイト)の詩人らしい鋭い感性がそこに働いている。上五の「寒:kan」、中七の「かれ:kare」、下五の「鰈:karei」、それぞれの「k音」の連なりにも、どこかまだ寒い響きの感じを読みとることができる。四郎の代表的な詩「さんたんたる鮟鱇」は「顎を むざんに引っかけられ/逆さに吊りさげられた/うすい膜の中の/くったりした死/これは いかなるもののなれの果だ」とうたい出される。干鰈と鮟鱇の見つめ方に、共通したものが感じられないだろうか。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


March 2232012

 面壁(めんぺき)も二十二年の彼岸かな

                           大道寺将司

者は東アジア武装戦線「狼」を結成、三菱重工本社を爆破事件の罪を問われて死刑の宣告を受けた。この句は1997年に作られているので、現在は三十七年獄中に暮らしていることになる。「面壁」とは達磨が9年壁に面して座り続け一言も発しなかったという故事に由来するのだろう。2011年2月に「赤軍派の永田洋子が六十五歳で死亡」という記事を新聞で読み、過ぎ去った一つの時代をつくづく思った。三菱重工の事件が起きたのは1974年。70年安保闘争も下火になり、学生運動が過激になっていった頃だったと思う。作者は死刑の宣告を受けて数十年以上、周囲の人との接触をいっさい断たれ自殺したくなるほど拘禁性の強い独房で過ごしているそうである。孤独な房で、自らの死刑と彼岸の死者と向き合いつつ、大道寺は俳句を作り続けている。「丈高く北と対する辛夷かな」『友へ』(2001)所収。(三宅やよい)


March 2332012

 雪すべてやみて宙より一二片

                           山口誓子

空を思う。昼だと日差しで雪が溶けるイメージがあるから。すべて止んだのにどうして一二片降りてくるのか。これは空から降ってくる雪ではない。完全に雪が止んだあとのしずかさの中、高みに積った粉雪が風のせいなどで自然に落ちて来るのだ。すべて止んだあと降りてくる雪、そんな難しいところをどうしてこんなに平明に詠めるのだろう。僕など同じ発想をしたらおそらく苦しまぎれに季語「風花」を用いるような気がする。風花は空から降ってくる雪だから趣旨が違うのに。そもそも止んだあとに落ちて来る雪なんて難しいところは諦めるしかないのだ。細かいことだが、一二片も最近の俳人は使えない。一、二片と書くだろう。じゅうにへんと誤読されるのが恐いからだ。読者が信頼できなくなっているということと自分と向き合うモノローグ性が弱くなって他者による理解を優先させる考え方が強くなっているからだ。だから「、」を多用したり名詞を並べるときに「・」を用いたりする。「、」も「・」も俳句の立姿を損ねる。読者を信頼するということと自分に向き合うこと。これは矛盾しない。『青女』(1950)所収。(今井 聖)


March 2432012

 山彦の山を降り来よ蓬餅

                           吉田鴻司

彦は、山の神であり精霊であり妖怪の一種でもあるらしい。確かに、自分の声と分かっていても誰かが答えてくれている気がする。この句の作者は、山を眺めつつ山に親しみ、山彦に、降りておいで、と呼びかけている。自分の子供の頃の山暮らしを振り返っても、春が一番思い出深い。土筆や蓬を摘み、れんげ畑で遊び、すべてが光り出す頃の記憶は、風の匂いとともに鮮明であり、蓬餅の草の香りがまたなつかしさを深くする。そんなことを思いながら読んだ句集のあとがきに「私は山に母を感じるのである」とある。山彦は母の声となって還ってくる、と語る作者だからこそ、降り来よ、がやさしく感じられるのだろう。春の山が微笑んでいる。『吉田鴻司全句集』(2011)所収。(今井肖子)


March 2532012

 雀来て障子にうごく花の影

                           夏目漱石

、縁側、障子、畳。日本の家屋には、室内に居ながら季を楽しめるしつらえがありました。漱石の小説の主人公たちは、横たわる姿勢で沈黙を保ち、そこに集まる人々の饒舌が物語を進行させていく----という蓮見重彦氏の漱石論がありますが、掲句の漱石も、畳に横臥しながらぼんやり障子をながめていたのかもしれません。ふいに雀がやって来て、桜の小枝にちょこんと乗る。このとき、初めて漱石の目の焦点は花の影をとらえます。雀がうごかした花の影に心をうごかされたのでしょう。漱石が生きた明治時代は、まだ映画産業が成立していませんでしたが、そのかわり、日本家屋に住まう人たちは、障子をスクリーンにして、季ごとの花鳥諷詠を楽しむことができました。アニメーションがなかったこの 時代に、雀が演出するアニメを漱石がほほ笑んだ、そんな俳味を感じます。明治24年の作。当時、東京帝大特待生の24歳。『漱石全集17巻』(岩波書店)所収。(小笠原高志)


March 2632012

 あの世めく満開の絵の種袋

                           加藤かな文

春のように花の種を買うけれど、ほとんど蒔いたことがない。ついつい蒔き時を逸してしまうのだ。だから我が家のあちこちには種袋が放ったらかしになっており、思いがけないときに出てきて、いささかうろたえることになる。それでも懲りずに買ってしまうのは、花の咲く様子を想像すると愉しいからだ。しかし、たしかにこの句にあるように、種袋に印刷された満開の絵(写真)は、自然の色合いから遠く離れたものが多い。はっきり言って、毒々しい。農家の子だったから、そんな種袋の誇張した絵には慣れているけれど、そう言われれば、あの世めいて感じられなくもない。種袋の絵のような花ばかりが咲き乱れているさまを思い描くと、美しさを通り越して、あざとすぎる色彩に胸が詰まりそうになる。もしもあの世の花がそんな具合なら、なんとか行かずにすむ手だてはないものかと考えたくなってしまった。「俳句」(2012年4月号)所載。(清水哲男)


March 2732012

 街に出てなほ卒業の群解かず

                           福島 胖

業という言葉には、これまでの生き方をまるごと認めて送り出す賞賛の拍手が込められている。叱られてばかりの学生生活でも、締めくくりはかくもおだやかな祝福に包まれる。神妙に揃えていた手足も、頬を伝った涙も、格式張った会場から出ればいつも通りに仲間と軽口を叩き、笑い合うことができる。青春のエネルギーはときとして辟易することもあるが、小鳥のさえずりや、雨上がりの芽吹きのように清々しく頼もしいものだ。このところテレビから繰り返し流れる「友よ、思い出より輝いてる明日を信じよう」(『GIVE ME FIVE!』歌:AKB48/作詞:秋本康)の歌詞の通り、若者は変化する環境に次々と順応できる。歌は「卒業とは出口じゃなく入口」と続く。卒業生たちは、来月にはあらためて新入生、新社員へと名を変える。出口に続く入口の直前まで仲間と群れている様子は、水にインクを落した直後、均一な濃度として溶け込むまでのわずかの間のふるえるような色合いに似る。おおかたの大人は、この無邪気な喜びののちに待つさまざまな苦労や、かつて自分にもあったこんな日を重ね、まぶしいような、切ないような複雑な気持ちになるものだ。そんな視線などものともせず、卒業式を終えた一群は元気に街へと繰り出していく。明日へ向かう躊躇のない一歩に心からのエールを。おめでとう!〈恋をしにゆく老猫を励ましぬ〉〈一人だけ口とがらせて入学す〉『源は富士』(1984)所収。(土肥あき子)


March 2832012

 影ふかくすみれ色なるおへそかな

                           佐藤春夫

の「おへそ」はもちろん女性のそれだけれども、春夫は女性の肉体そのものを直接のぞいて詠ったわけではない。ミロのヴィーナスの「おへそ」である。一九六四年に上野の国立西洋美術館にやってきて展示され、大きな話題を呼んで上野の山に大行列ができた。その折、春夫は一般の大行列に混じって鑑賞したわけではなく、特別に許されて見学者がいないところで、ヴィーナスに会うことができたのだという。それにしても「すみれ色」とはじつに可憐で奥床しく、嫌味がない。春夫があの鋭い目と穏やかならざる凄みのある表情で、「おへそ」をじっと睨みつけている様子が想像される。私は後年、パリのルーブル美術館で通路にさりげなく置かれたヴィーナス像を、まばらな見学者に拍子抜けしながら、しげしげと見入ったことがあったけれど、さて、おへその影が何色に見えたか記憶にない。同じときに春夫は「宝石の如きおへそや春灯(はるともし)」という句も作っている。「宝石」よりは「すみれ色」のほうがぴったりくることは、誰の目にも明らか。関森勝夫『文人たちの句境』(1991)所載。(八木忠栄)


March 2932012

 陽炎の広場に白い召使

                           冬野 虹

炎は春のうららかな陽射しに暖められた空気に光が不規則に屈折したためにおこる現象。「召使」という言葉から考えるとこの場所は駅前広場や公園のやや広い芝生といった日本の風景ではなく、ヨーロッパの街の中心部にある広場に思える。城壁に囲まれた中世の街の中心部にある広場は時に処刑や祭りが催された政治的中心地。強固な石造りの建築物や石畳だからこそ、その揺らぎは見るものの不安をかきたてる。その凝視が、「白い召使」といった不思議な形容を生み出したのだろうか。あるようでない、いないようでいる。陽炎を媒介に日常を突き抜ける作者の視線が幻想的な世界を作り出している。『雪予報』(1988)所収。(三宅やよい)


March 3032012

 三月やモナリザを売る石畳

                           秋元不死男

ナリザといっただけであまりにも有名な絵の複製だということがわかる。こんなことすら自分が作るときは臆病になるのだ。絵や複製という説明がなくてもそれとわかるのは石畳や「売る」があるからだ。三月はどうだろう。十月や七月ではだめかな。絶対三月であらねばならないと思う人にはそれなりの理由があるのだろうが、僕は十月でも七月でもいいような気がする。問題は季語がさまざまに取り替えがきくことをもってしてその句の価値が減じるという考え方ではないか。それは俳句というものは季節を詠うものだという目的意識に由来する。この句の上五に入れて価値を減じる季語もあろうが、三月と同じかそれ以上の価値をもたらす季語があるかもしれぬと考えることはこの句の価値を疑うこととイコールではない。『万座』(1967)所収。(今井 聖)


March 3132012

 初蝶と見ればふたつとなりにけり

                           中西夕紀

う目にしているはずなのに、あ、初蝶、という記憶が今年はまだ無い。個人的な事情で、まことに余裕のないこの二ヶ月だったからだろうか。まあ気づいた時が初蝶なのだから、おかしな言い方かもしれないが。でも掲出句のような光景は記憶にある。まさに蝶のひらひらが見えてきて、ああ春が来たな、と感じているのがわかる。まだ寒さの残っている中、元気な蝶に出会うとうれしいものだ。ふたつの蝶は、もつれ合いながらやがて視界から消えてゆき、明るくなってきた日差しの中でゆっくり深呼吸している作者なのだろう。『朝涼』(2011)所収。(今井肖子)




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