あの悪夢のような日から一年が経ちました。ただ合掌するのみ。(哲




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March 1132012

 雲雀より空にやすらふ峠哉

                           松尾芭蕉

人芭蕉が、雲雀(ひばり)より上の空にやすらいだ実感の句です。元禄元年(1688)の春、『笈の小文』の旅のなか、「臍(ほぞ)峠」、奈良県桜井市と吉野町の境にある峠の句です。標高約700mの峠の頂上から一面の麦畑を見渡していると、雲雀がはるか下の方で鳴いている、しぜん、笑みがこぼれます。ところが、翌元禄二年(1689)刊の『曠野』では、「空に」を「上にやすらふ」と改めています。なぜでしょう。いくつか考えてみました。一、私は当初、「上に」よりも「空に」のほうが好みでした。表現が洒落ているからです。しかし、芭蕉は、そこにあざとさを見て、「上に」と通俗的な表現に改めたのではないでしょうか。二、「空に」という表現には広がりがあり、解放的な気分にさせる一 方で、「上に」とすると雲雀との関係が結びつきやすくなります。空間的な広がりよりも高低差を示したかったからではないでしょうか。三、「雲雀より空に」とすると句の起点が「雲雀」になります。つまり、峠に着いたときの視点からこの句が始まります。一方、「上に」の場合は、句の起点が雲雀より下の里にあるのではないでしょうか。里を歩いているとき、雲雀を上に見あげて聞いていたのが、いまや雲雀の高さをはるかに越えて、この峠まで辿りついた登高のプロセスを含意しているように思われます。芭蕉の推敲を推測しました。『芭蕉全句集』(角川ソフィア文庫)所収。(小笠原高志)


March 1032012

 燃やすべき今日の心や椿燃ゆ

                           上野 泰

らずに落ちることを詠まれ続ける椿だけれど、この句の椿はあかあかと燃えている。燃えるような赤い花、というともっと明るいイメージだが、深い緑の葉陰に一輪ずつのぞく椿の赤にはまた、独特の表情がある。燃やすべき、と詠んだこの時五十一歳の作者、椿のひたすらな赤にかきたてられるように何を思ったのだろうか。今日は三月十日、ちょうど一年が過ぎる。今こうして、いつ何が起こるかわからず、明日が来るのかさえ不確かな日々の中に暮らしていると、燃やすべき今日の心、という言葉がより一層切実に迫って来る。『城』(1974)所収。(今井肖子)


March 0932012

 畦焼の祖父が火入れの責を負ふ

                           谷口智行

取県米子市に住んでいたときの公舎の前は自衛隊の演習地だった。別に柵があったわけでもなく、向かいの家々までは霞むほどの距離があった。ときどき火炎放射器の実演などもあったから今から思うと危険な野原だった。春に父が庭に放った火が演習地に燃え移り父が叫びながら走り回り消防車まで来た記憶がある。野焼、畦焼はかくのごとく危険なものであるということを実感したのである。「祖父」は風の向きや強さなどを計算に入れながら火を入れるのだろう。煙の匂いなどもただ茫々と懐かしい限りである。『日の乱舞物語の闇』(2010)所収。(今井 聖)




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