April 102012
猫の子の目が何か見ておとなしき
喜田進次
開いたばかりの猫の目は、どんな猫でもみんな濃いブルーである。「キトン(子猫)ブルー」と名付けられる深い青色は一ヶ月ほどかけて薄れ、本来の瞳の色になっていく。虹彩に色素が定着していないことが理由らしいが、この吸い込まれるような青い瞳にはもっとロマンチックなストーリーを重ねたくなる。しきりに鳴き続けた子猫がふとなにかを見つめ静かになったという掲句。『メアリー・ポピンズ』に赤ん坊は日の光、風、樹、小鳥、星のどれもが話しかけてくれた日々を、人間の言葉を覚えるとともに忘れてしまう、とムクドリが嘆く話しがあった。驚きやすい子猫をうっとりとなだめたものは、綾なす春の日差しか、きらめく木漏れ日か、人間の大人には見えないなにかが確かにそこにはあったのだろう。『進次』(2012)所収。(土肥あき子)
July 122012
蛍の夜右が男の子の匂ひ
喜田進次
日もとっぷり暮れて、あたりは真っ黒な闇に包まれてゆく。青白い火が一つ瞬いて、気がつけばあちらにもこちらにも蛍が見えてくる。胸のあたりに並んだ子供の頭がときどき揺れて、汗ばんだ身体や髪から日なたくさい匂いが上がってくる。右側にいるのが男の子だろうか。普段は意識しないけど、そうやって比較すれば女の子の方が涼しげな匂いがしそうな気がする。暗闇にたたずみ蛍に見入っていると闇にいる動物のように五感が鋭くなり、匂いに敏感になるのかもしれない。こんな句を読むと、息をつめて川岸の蛍を見つめている雰囲気がまざまざとよみがえってくる。歓声を交えてざわめく人の声や、湿った草いきれ、川のせせらぎまで聞こえてきそう。今も、蛍は飛び交っているだろうか。いっぱいの蛍が群れてクリスマスツリーのように光る樹を見に行きたい。「家に着くまで夏雲の匂ふなり」「銀行の前がさびしき天の川」『進次』(2012)所収。(三宅やよい)
October 062012
栗をむくいつしか星の中にをり
喜田進次
栗があまり好きではない。子供の頃延々と栗剥きの手伝いをさせられたからだけでなく、ほの甘さとぼそっとした食感がどうも苦手だ。中華街によく行くけれど、唯一いやなところは、おいしいよ、と言いながら天津甘栗を食べさせようとするところだ。それが今月、二つの句会で「栗」が兼題となり困ったなと思いつつ、とても惹かれた栗の句があったことを思い出した、それが掲出句である。句集拝読の折、秋になったら、と栞を挟んでおいたのだった。読み進めていて、いろいろな意味でふっと立ち止まった一句である。栗から星は、殻や甘皮が散らかって、むかれた栗もまるまるところがって、その中にいることからの発想かもしれない。栗をむくことと星の中にいること、突然時空を超えてしまったかのような飛び方なのだが、それを、いつしか、がつなぐともなく優しくつないで自然な広がりを与えている。これからも毎秋かならず思い出すであろう一句。『進次』(2012)所収。(今井肖子)
November 152012
茶の花やぱたりと暮るる小学校
喜田進次
茶の花は小さな白い花。歳時記によると新たに出来る梢の葉の脇に二つ、三つ咲き出るようだ。「茶の花のとぼしきままに愛でにけり」という松本たかしの句にあるように、生い茂った緑にぽつりぽつりと顔を見せる奥ゆかしさと馥郁とした匂いを好む俳人は多い。今まで歓声をあげて駆け回っていた子どもたちも下校してすっかり静かになった小学校がとっぷり暮れてゆく。「ぱたりと」という表現が突然途絶える賑わいと日の暮れようの両方にかかっている。秋の日は釣瓶落としというけど昼ごろの学校の賑わいと対照的なだけによけい寂しく感じられるのだろう。茶の花の持つ静かで侘びしいたたずまいが小学校の取り合わせによく効いている。『進次』(2012)所収。(三宅やよい)
February 062014
流氷が見たくて飴を舐めてをり
喜田進次
今年も流氷が確認されたと、ニュースでやっていたが接岸はいつだろう。本物の流氷はまだみたことはなくて思い浮かぶのはテレビドラマ「北の国から」で消息不明になったトド撃ちに扮した唐十郎が流氷を渡って港へ帰って来るシーンだ。流氷って人が乗っても大丈夫なんだろうか、トドやあざらしは流氷に乗って旅するんだろうか。流氷ははるか北への旅情をかきたてる。舌の上になま温かく飴を転がす感触とオホーツク海から来る固く冷たい流氷。距離感と質感ともに対照的な二物の取り合わせが魅力的で、私も飴を舐めながら流氷を待ってみたい。『進次』(2012)所収。(三宅やよい)
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