母の葬儀。雨降りでなくてよかった。川越まで出かけてきます。(哲




2012ソスN4ソスソス15ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

April 1542012

 山桜雪嶺天に声もなし

                           水原秋桜子

の故郷、釧路の花見は六月です。南北に長く、高低差のある日本列島の春は、ゆっくりやってきます。北国、雪国、寒冷地の春はこれからです。掲句は、はるか遠景に雪嶺を望む盆地の山桜に、声も出ないほど見入ってしまっている実景の句でしょう。句の視線は、山桜から雪嶺へ、雪嶺から天へと高度を上げ、それは、花から雪へ、雪から天へと純度を上げていくことでもありながら、急転直下、声もなしと作者のところにストンと落ちてきています。清澄な気持ちは天まで昇りつめ、一転、地上の自身に帰ってくる。作者は、声を出せないことで、天まで昇った純度を俗に陥ることなく保ちました。たとえば、信州で野良仕事をしているお百姓さんが、ふと手を休めて山桜を 見上げたとき、「山桜雪嶺天」の漢語が連なっているように、花と雪嶺と天が一体となった風景を見て、声が出ない、言葉をのみ込む、しかし、その時、風景そのものをのみ込んでしまっている、それゆえお百姓さんは寡黙なのでしょう。作者・秋桜子も、この土地の人が、この土地の「山桜雪嶺天」を見るようにこの風景をのみ込んでしまって声もなし、だったのではないでしょうか。以前、舞踏の土方巽さんが、弟子をとるときは、納豆を食わせる、とおっしゃっていました。「うまい」と言ったら不合格。黙ってズルズル食い切る奴を弟子にすると。にぎわう花見は天地人の人。声が出ない花見は天地人の天。どちらも好きです。『日本大歳時記・春』(1983・講談社)所載。(小笠原高志)


April 1442012

 廊ながく花の盛りに間に合はぬ

                           原 雅子

報では週半ば、東京は花散らしの雨になるというから、週末の土曜日はもう花は終わっているだろう。しかし今年の桜は、時ならぬ嵐に耐えて咲き始め花冷の日が続いたからか、なんだか我慢強く、満開になっても少々の風では散らないので、逆に散り時を失っているかもしれない。そんなことを思いながら掲出句を思い出した。この桜は、順当に暖かくなっていよいよ咲き満ちてきた桜。昨年句集を拝読したのは初秋だったが、この句を目にして思わずにっこり、それから一気に花時のはやる心がよみがえり、一緒に気分は小走りになりながら、見るうちに咲きふえてゆく桜が目の前に広がるような気がしたのだった。年ごとに違うからまたおもしろい、まさに束の間の花時である。『束の間』(2011)所収。(今井肖子)


April 1342012

 落日の目つぶし鏡拭く沖縄

                           隈 治人

縄の落日が目にまぶしい。まぶしさを通り越して目つぶしのような強烈な光線だ。目つぶしで一端切る。鏡を拭くのは拭いても拭いても鏡から消えない沖縄の存在感を言っている。「目つぶし」がこの句の核。沖縄がテーマのようだが実は「目つぶし」の方が強烈な詩語だ。この句の「沖縄」は「目つぶし」がなければ生きてこないが、「目つぶし」の方は「沖縄」が無くても他の言葉とうまくやっていける。そんな気がする。こういう核になる語から探していく作り方もあろう。『感性時代の俳句塾』(1988)所載。(今井 聖)




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