斎場入り口に飾られた母の自画像や川柳短冊他。15日。(哲




2012蟷エ4譛17譌・縺ョ句(前日までの二句を含む)

April 1742012

 ひねりつつものの種まく太き指

                           森 俊人

参も大根も、種を初めて見たときは心細いほど小さくて驚いた。その小さい種を、溝にそって一列に蒔いたり、一カ所に数粒ずつ蒔いていく。家庭菜園は収穫が最大の楽しみだが、育てる喜びを味わえることも大きいという。掲句では上五の「ひねりつつ」に作物への愛情が感じられる。ひと粒ひと粒にしっかりと体温を伝えるように、種は大地へと戻される。ふっくらと土に包まれ、たっぷりの太陽の日差しを浴び、ときには恵みの雨を経て種はしっかりと根付いていく。作者は、やわらかな芽吹きや、たわわな収穫の姿をなだらかな黒い土の上に描きながら、太い指先からまるで生み出すように種をこぼすのだ。そういえば、友人から大葉の種がもらったままになっていることを思い出した。栽培カレンダーによると、種まき4月が適当であり、初心者にも育てやすいとある。まずは大葉で、健やかな収穫の喜びを味わってみようかと思う。『自在』(2012)所収。(土肥あき子)


April 1642012

 うぐひすや名もなく川のはじまれる

                           しなだしん

奥に住んでいた子供の頃、春になるとしばしば、もっと山の奥に入ったものだった。主としてワラビやゼンマイを摘むためだったが、それに飽きると、さらに山深く分け入る冒険心がわいてきた。道があるようでないような人っ子一人いない深い山のなかを歩いていると、明るい木漏れ日をいろどるように、あちこちから鴬の鳴き声が聞こえてきて、子供ながらに陶然というか「うっとり」とした気分になってくるのだった。句の作者もまた、そんな気分の中にいるのだろう。耳を澄ませば水の流れる音がしてきて、よく見ると、まだ川とも言えないような小さな流れが見えたのである。作者にはその流れが、近隣の名のある川の源流であることがすぐにわかって、この句が浮かんだのだと思う。末はどんな大河になろうとも、はじまりの流れに名前などはなく、そして永遠に名づけられることもないのである。そんな可憐な流れへのいとおしい思いが、まことに心優しく詠まれている。『隼の胸』(2011)所収。(清水哲男)


April 1542012

 山桜雪嶺天に声もなし

                           水原秋桜子

の故郷、釧路の花見は六月です。南北に長く、高低差のある日本列島の春は、ゆっくりやってきます。北国、雪国、寒冷地の春はこれからです。掲句は、はるか遠景に雪嶺を望む盆地の山桜に、声も出ないほど見入ってしまっている実景の句でしょう。句の視線は、山桜から雪嶺へ、雪嶺から天へと高度を上げ、それは、花から雪へ、雪から天へと純度を上げていくことでもありながら、急転直下、声もなしと作者のところにストンと落ちてきています。清澄な気持ちは天まで昇りつめ、一転、地上の自身に帰ってくる。作者は、声を出せないことで、天まで昇った純度を俗に陥ることなく保ちました。たとえば、信州で野良仕事をしているお百姓さんが、ふと手を休めて山桜を 見上げたとき、「山桜雪嶺天」の漢語が連なっているように、花と雪嶺と天が一体となった風景を見て、声が出ない、言葉をのみ込む、しかし、その時、風景そのものをのみ込んでしまっている、それゆえお百姓さんは寡黙なのでしょう。作者・秋桜子も、この土地の人が、この土地の「山桜雪嶺天」を見るようにこの風景をのみ込んでしまって声もなし、だったのではないでしょうか。以前、舞踏の土方巽さんが、弟子をとるときは、納豆を食わせる、とおっしゃっていました。「うまい」と言ったら不合格。黙ってズルズル食い切る奴を弟子にすると。にぎわう花見は天地人の人。声が出ない花見は天地人の天。どちらも好きです。『日本大歳時記・春』(1983・講談社)所載。(小笠原高志)




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