午後は神楽坂にて「余白句会100回記念」公開句会です。(哲




2012N421句(前日までの二句を含む)

April 2142012

 散ることは消えてゆくこと山桜

                           山本素竹

京の桜は花吹雪から花屑となり彷徨っているが、若葉に目を奪われているうちにいつのまにかなくなる。いくらかは土に還るだろうが、ほとんどはゴミと一緒に燃えたり下水に流れ込んだりしてしまうのだろう。でも山桜は、花時が終わればその淡々とした華やぎをあっさりと消す。消えることは儚くもあるが、そこには山の土となりやがて花となって蘇る明るさもある。今年、満開の桜に包まれた山、というものを生まれて初めて見て、そんな感を強くした。一本ずつ違う花の色は、草木のみどりの濃淡と重なり合い溶けあって、花の山となり谷となって続いていた。夜明け前は薄墨色に眠り、日が差せば明るくふくらむ山桜。短い旅から戻り、茶色くなりかけた花屑が残っているアスファルトの道を歩きながら、山桜に惹かれるのは生きている山にあるからなのだとあらためて実感している。『百句』(2002)所収。(今井肖子)


April 2042012

 オルガンを聴く信長に春の風

                           井川博年

近俳句の勉強会で秋元不死男さんの「子規知らぬコカコーラ飲む鳴雪忌」という句を読んだ。この句の鳴雪忌が嵌っているかどうかは別にして、新しいものに関心を寄せる子規の性格から想像すると、もしコカコーラが当時出たらすぐに試しただろうという句だとの鑑賞をした。史実として信長がオルガンを聴いたかどうかは知らないが、やはり新しいものに積極的な信長のこと、こういうこともあったかと思われてくる。ドラマの一シーンにこんな場面を入れれば血なまぐさい生涯の信長という定説に奥行きが生まれること請け合いである。「OLD STATION 15 」(2012)所載。(今井 聖)


April 1942012

 手をのこしゆく人ありて汐干狩

                           阿部青鞋

干狩は春の大潮の頃に行われることが多いと歳時記にある。小さなシャベル片手にズボンを捲り上げて遠浅の海に入る。海は沖へ遠のき、あちらこちらに腰をかがめて黒い砂土を掘る人たちがいる。これは私が二、三十年前に見た牧歌的風景なのだけど、今頃はどうなのだろう。都会近くの海岸では人・人・人の混雑ぶりで、お土産にビニール入りで販売されている浅利を買って帰るといったところだろうか。掲句は汐干狩の人々が去り、静かな海岸の景色に戻った「汐干狩その後」の印象。それも砂浜に残された手の窪みとか手形ではなくて、貝を掘っていた無数の人々の手が残されている光景を想像してしまう。青鞋の句には身体の部位を「もの」として突き放して扱う句が多い。普段は自分に属するものとして意識しない身体の部位を対象化することで知っているはずの風景に不協和音が生じる。そうして俳句の範疇で囲われた季語も違った音色を奏で始める。〈てのひらをすなどらむかと思ひけり〉〈人の手ととりかへてきしわが手かな〉「現代俳句協会HP」所載。(三宅やよい)




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