第100回余白句会最高点句。日に一度獣に触れて水温む(箭内忍)。(哲




2012N423句(前日までの二句を含む)

April 2342012

 大阪に絹の雨降る花しづめ

                           ふけとしこ

花の散るころから初夏にかけては気候の移り変わりが激しく、疫病の流行する時期に当たり、疫病の霊を鎮め心身の健全を祈願する祭りが「鎮花祭(はなしづめのまつり)」「花しづめ」である。奈良・桜井市の大神(おおみわ)神社などのものが有名だが、大阪では、大阪天満宮でこの二十五日に行われる。そんな祭の日の雨を詠んだ句と解するのが真っ当な読みなのだろうが、私にはむしろ祭には無関係の句のように思われた。春爛漫を謳歌していた桜の花が散りはじめた大阪の街に、絹糸のような細くて清冽な雨が降ってきて、その雨が花々のたかぶりをなだめ鎮めているようだと読んだ。祭とは直接的には関係なく、降る雨がおのずから「花しづめ」の役回りとなり、花に象徴される大阪の活気や猥雑さを清らかに洗い拭っている。もっと言えば、一般的な大阪のイメージを払拭して、静かで落ち着いた大阪を差し出してみせているのだ。すなわち、大阪という都市の奥深さを抒情的に表現した句と思うのだが、どんなものだろうか。『鎌の刃』(1995)所収。(清水哲男)


April 2242012

 雁帰る沖にしづめる剣いくつ

                           木津直人

句は、俳句という短い形式のなかに現在と古代をダイナミックに振幅させています。「雁帰る」が季語で、秋に寒地より越冬にやって来た雁が春に帰る情景を、作者は現在の視点で見ています。見続けているうちに、沖の水平線の彼方に雁が消えていきます。それは沖に沈んでいくようにも見えながら、作者の想念のなかで、海底の剣になっていったのではないでしょうか。雁の形と剣の形は似ていますから、心地よい飛躍です。ここで句は、現在の雁から古代の剣へと大きく振幅します。「雁」と「剣」は対照的で、それは、空の彼方と海の底、見えているものと見えていないもの、自然の営みと人の戦いの歴史、というように大きな隔たりがあります。この対照的な「雁 」と「剣」を句のなかでつなぎとめているのが「沖」でしょう。「沖」は、「雁帰る沖」でもあり、「沖にしづめる剣」でもあり、「沖」が空と海底を空間的につなぎとめている蝶番(ちょうつがい)のはたらきを担っています。最後は「いくつ」と疑問で終わり、古代から現在へと振幅が戻ります。問いかけは少年が持つ謎や憧れや好奇心に近く、沖に古代を夢想する詩情を感じます。作者は詩人で、詩集に『単位』(七月堂)『記憶祭』(私家版)があります。「ににん」(2012年春号)所載。(小笠原高志)


April 2142012

 散ることは消えてゆくこと山桜

                           山本素竹

京の桜は花吹雪から花屑となり彷徨っているが、若葉に目を奪われているうちにいつのまにかなくなる。いくらかは土に還るだろうが、ほとんどはゴミと一緒に燃えたり下水に流れ込んだりしてしまうのだろう。でも山桜は、花時が終わればその淡々とした華やぎをあっさりと消す。消えることは儚くもあるが、そこには山の土となりやがて花となって蘇る明るさもある。今年、満開の桜に包まれた山、というものを生まれて初めて見て、そんな感を強くした。一本ずつ違う花の色は、草木のみどりの濃淡と重なり合い溶けあって、花の山となり谷となって続いていた。夜明け前は薄墨色に眠り、日が差せば明るくふくらむ山桜。短い旅から戻り、茶色くなりかけた花屑が残っているアスファルトの道を歩きながら、山桜に惹かれるのは生きている山にあるからなのだとあらためて実感している。『百句』(2002)所収。(今井肖子)




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