強いけど面白くない野球=中日。弱くて面白くない野球=巨人。(哲




2012蟷エ4譛24譌・縺ョ句(前日までの二句を含む)

April 2442012

 春深しひよこに鶏冠兆しつつ

                           三村純也

わとりは庭で手軽に飼うことができる家禽であった。新鮮で栄養豊富な卵が手に入り、フンは飼料となった。にわとりの餌を刻み、水を取り替え、卵を回収するのは子どもの役目だと聞いたのは、清水哲男さんからだったが、昭和40年代のわが家の回りにもまだちらほらと庭でにわとりを飼っている家は存在した。友人の家にひよこが生まれたと聞いて、学校帰りに見に行くと、たんぽぽの絮毛を重ねたような愛らしいひよこがよちよち歩きまわっている。あまりの可愛らしさに毎日のように寄り道するようになったが、一ヶ月もしないうちにすらりと筋肉質の体躯になり、そのうち鶏冠(とさか)が生えてくる。孵ったばかりのひよこの雌雄を見分けることは極めて難しいそうで、そのため「初生雛鑑別師」という国家資格があるそうだが、彼女に家のひよこたちも、雌は残して、雄は引き取ってもらうことになっていた。鶏冠が大きくなれば雄なのだ。晩春のともすれば汗ばむような日差しのなかで、鶏冠がほの見え始めたとき、ひよこ時代は終わりを告げる。おたまじゃくしの足ほど重要ではなく、人間の親知らずほど無用でもない程度に考えていた鶏冠だが、ひよこたちの運命を左右するものかと思えば、その一点の赤が痛々しく切なく胸に迫ってくる。『觀自在』(2011)所収。(土肥あき子)


April 2342012

 大阪に絹の雨降る花しづめ

                           ふけとしこ

花の散るころから初夏にかけては気候の移り変わりが激しく、疫病の流行する時期に当たり、疫病の霊を鎮め心身の健全を祈願する祭りが「鎮花祭(はなしづめのまつり)」「花しづめ」である。奈良・桜井市の大神(おおみわ)神社などのものが有名だが、大阪では、大阪天満宮でこの二十五日に行われる。そんな祭の日の雨を詠んだ句と解するのが真っ当な読みなのだろうが、私にはむしろ祭には無関係の句のように思われた。春爛漫を謳歌していた桜の花が散りはじめた大阪の街に、絹糸のような細くて清冽な雨が降ってきて、その雨が花々のたかぶりをなだめ鎮めているようだと読んだ。祭とは直接的には関係なく、降る雨がおのずから「花しづめ」の役回りとなり、花に象徴される大阪の活気や猥雑さを清らかに洗い拭っている。もっと言えば、一般的な大阪のイメージを払拭して、静かで落ち着いた大阪を差し出してみせているのだ。すなわち、大阪という都市の奥深さを抒情的に表現した句と思うのだが、どんなものだろうか。『鎌の刃』(1995)所収。(清水哲男)


April 2242012

 雁帰る沖にしづめる剣いくつ

                           木津直人

句は、俳句という短い形式のなかに現在と古代をダイナミックに振幅させています。「雁帰る」が季語で、秋に寒地より越冬にやって来た雁が春に帰る情景を、作者は現在の視点で見ています。見続けているうちに、沖の水平線の彼方に雁が消えていきます。それは沖に沈んでいくようにも見えながら、作者の想念のなかで、海底の剣になっていったのではないでしょうか。雁の形と剣の形は似ていますから、心地よい飛躍です。ここで句は、現在の雁から古代の剣へと大きく振幅します。「雁」と「剣」は対照的で、それは、空の彼方と海の底、見えているものと見えていないもの、自然の営みと人の戦いの歴史、というように大きな隔たりがあります。この対照的な「雁 」と「剣」を句のなかでつなぎとめているのが「沖」でしょう。「沖」は、「雁帰る沖」でもあり、「沖にしづめる剣」でもあり、「沖」が空と海底を空間的につなぎとめている蝶番(ちょうつがい)のはたらきを担っています。最後は「いくつ」と疑問で終わり、古代から現在へと振幅が戻ります。問いかけは少年が持つ謎や憧れや好奇心に近く、沖に古代を夢想する詩情を感じます。作者は詩人で、詩集に『単位』(七月堂)『記憶祭』(私家版)があります。「ににん」(2012年春号)所載。(小笠原高志)




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