April 282012
行く春の手紙に雨の匂ひなど
北川あい沙
花時が長かった今年、待ちかねたように緑が湧き出てきたと思えばもう四月も終わり、あと一週間で立夏を迎える。汗ばむ日があるかと思えばひんやりとして、晴天が続かず雨もよく降る暮の春。暮春と行春はほとんど同じだが、行春の方が「多少主観が加はつてゐるやうに思はれる」(虚子編新歳時記)とある。行く、という言葉は、振り返ることのない後ろ姿を思わせ、静かな寂しさを広げるからか。そんな春も終わりの日に受けとった手紙は少し濡れていて、かすかに雨の匂いがしている。濡れた紙の匂いが、遠い記憶のあれこれを呼び起こしているのかもしれない。句集の春の章の終わりに〈うつぶせに眠れば桜蘂の降る〉。『風鈴』(2011)所収。(今井肖子)
April 272012
蛇打ちし棒を杖とし世を拗ねる
吉田未灰
中七までは思念の勝った高踏的な内容を思わしめる。たとえばモーゼのような、ツァラツストラのような、草田男作品のような。下五の「世を拗ねる」であれっと思う。なんだこりゃと思うのだ、最初は。ところが、なんだこりゃどころかこれは作者の風土詠だとやがて気づく。同著に「仁侠の地の木枯や叫ぶごと」もある。上州に生まれその地で営々と地歩を気づいてきた作者の郷土愛と言ってもいい。高倉健さんも唄っている「親の意見を承知で拗ねて曲りくねった六区の風よ」の「拗ねて」と同じ。国定忠治の地元である。フィクションだが木枯し紋次郎も上州。気づいたとたん俄然この句が面白くなった。世を拗ねる俳句なんて初めて見た。『点点』(2012)所収。(今井 聖)
April 262012
春の雨街濡れSHELLと紅く濡れ
富安風生
車を運転しなくなってからガソリンスタンドにとんと縁がなくなった。昔はガソリンの値段に一喜一憂したものだが、車を手放してからはガソリンスタンドがどこにあるのやら、道沿いの看板を気に留めることもない。この句は昭和18年に出された句集『冬霞』に収録されているが、当時は車を持っていること自体、珍しい時代。しかも日米開戦後、英語が敵国語として禁止されていく状況を思うと挟みこまれた英単語にモダンという以上に意味的なものを探ってしまう。しかしそうした背景を抜きにして読んでも春雨とSHELL石油の紅いロゴの配合はとてもお洒落だ。同じ作者の句に「ガソリンの真赤き天馬春の雨」があるが、こちらはガソリンと補足的な言葉が入るだけに説明的で、掲句の取り合わせの良さにはかなわないように思う。SHELL石油がなくなったとしても蕪村の「春雨や小磯の小貝濡るるほど」が遠く響いてくるこの句は長く残っていくのではないだろうか。「日本大歳時記」(1982)所載。(三宅やよい)
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