「立夏」です。ついこの間まで、寒い寒いと言っていたのに。(哲




2012ソスN5ソスソス5ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 0552012

 湯の町に老いて朝湯や軒菖蒲

                           石川星水女

が近づく匂い、というのがある。それは、晴れた日よりも曇り、あるいはさっと来て上がった雨の後、ぐんぐん色濃くなってきた緑と濡れた土の香に、ああ夏が来る、とうれしさとなつかしさの入り交じった心地になる匂いだ。立夏と同時に端午の節句でもある今日。軒菖蒲、は、菖蒲葺く、の傍題だが、祖母が軒下に菖蒲湯に入れるほどの菖蒲を差していた記憶がある。本来は菖蒲と蓬を束にして屋根に置き邪気を祓う、というがこれもさぞよく香ることだろう。掲出句は、昭和四十年代後半の作、旅先での何気ない一句なのだが、すっと情景が浮かぶ。そこに人の暮らしが見えることで、小さな湯の町に、温泉、若葉、菖蒲に蓬と、豊かな初夏の香りがあふれてくる。『土雛』(1982)所収。(今井肖子)


May 0452012

 骨切る日青の進行木々に満ち

                           加藤楸邨

書きに「七月一日、第一回手術」1961年に楸邨は二度手術を受けている。結核治療のための胸郭整形手術。当時は胸を開いて肋骨を外したのだった。「青の進行木々に満ち」と手術への覚悟を生命賛歌に転ずるところがいかにも楸邨。悲しいときや苦しいときこそそこに前向きのエネルギーを見出していく態度が楸邨流。文理大の恩師能勢朝次の死去に際しては「尾へ抜けて寒鯉の身をはしる力」と詠み、妻知世子の死去の折には「霜柱どの一本も目覚めをり」と詠んだ。俳句の本質のひとつに「挨拶」があるとするなら、身辺の悲嘆を生へのエネルギーに転化していくことこそ「生」への挨拶ではないか。『まぼろしの鹿』所収。(1967)所収。(今井 聖)


May 0352012

 あふれさうな臓器抱へてみどりの日

                           小川楓子

われてみるとおなかの中には胃から腸から肝臓やすい臓にいたるまでさまざまな臓器がひしめいている。普段健康でいると、見えない臓器なんぞ気にもとめないが、一つ不調になるだけでたちまちのうちに日常生活に支障をきたすだろう。内視鏡検査で咽喉から胃壁に降りてゆくカメラで薄赤い内部を見る機会があったが変なものが見えてしまったら怖いのでひたすら視線を逸らして検査に耐えていた。輝く新緑のただなかに立つ人間それぞれが、あふれそうな臓器を抱えていると思うと少し薄気味悪く思える。「あふれそうな」は臓器とみどりと双方にかかっているが、みずみずしい季節を象徴する「みどり」と「臓器」の生々しさと結び付けることで予定調和的なリリシズムから一歩踏み出している。『超新撰21』(2010)所載。(三宅やよい)




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