久留米行き。新幹線で東京から博多まで乗りつづける人は稀だ。(哲




2012ソスN5ソスソス12ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 1252012

 包丁はキッチンの騎士風薫る

                           中村堯子

句を始めたばかりの頃、風薫る、が春で、風光る、が夏のように感じられなんとなく違和感を持った記憶がある。そのうち、まず日差しから春になってくるとか、緑を渡る風が夏を連れてくるとか、気がついたのか思いこんだのか、その違和感はなくなってしまった。さらに薫風は、青葉が茂った木々を渡る南風を「薫ると観じた」(虚子編歳時記)とあり、香りだけでなく五感でとらえるということなのだろう。掲出句、包丁で一瞬どきりとさせられるが、薫風が吹き渡ってくることで、銀の刃と若葉の緑が輝き合い、キッチンの騎士、という歯切れのよい音と共に清々しさが広がる。『ショートノウズ・ガー』(2011)所収。(今井肖子)


May 1152012

 川幅に水が窮屈きんぽうげ

                           岡本 眸

句的情緒というものを毛嫌いしている僕にとって岡本眸さんは例外だ。眸さんの句の中には神社仏閣関連用語が比較的多く出てくる。またそういう用語を用いて従来の情緒にあらざるところを狙っているのかというとそうでもない。なのにどうして魅力を感じるのだろうか。俳人は粥を啜り着物を着て歌舞伎座に行き或いは能を観て、帰りは鳩居堂に寄り和紙を買ったりする。何を食べてどこへ行こうと自由だが典型を抜けたところにしか「詩」は存在しない。「詩」とは作者の「私」であり、提示される「?」だ。この句で言えば「窮屈」。川幅も水もきんぽうげもどこにでもある風景を演出する小道具。この言葉だけが異質。ここが詩の核である。こんな易しい俗的な言葉の中にしっかりと眸さんの「私」が詰まっている。「別冊俳句・平成俳句選集」(2007)所載。(今井 聖)


May 1052012

 泰山木けふの高さの一花あぐ

                           岸風三楼

きな樹木に咲く花は下から見上げても茂る葉に隠れてなかなか気づかないものだ。俳句をやり始めたおかげでこの花の名前と美しさを知ったわけだけど、今ではこの時期になると職場近くにある泰山木の花が開いたかどうか昼休みに確かめにゆくのが習慣になった。木陰にあるベンチに弁当を広げながら、ああ、あの枝の花が開きかけ、2,3日前に盛りだったあの花はまだ元気、枝の高さを追いながらひとつひとつの花を確かめるのも嬉しい。青空の隙間に見えるこの花の白さは美しく、名前の響もいい。原産地は北米で、渡来は明治以後とのこと。「一花あぐ」という表現が下から見上げる人間の思惑など気に掛けず天上の神々へ向けて開いているようで、超然としたこの花の雰囲気を言い当てているように思う。『岸風三樓集』(1979)所収。(三宅やよい)




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