五月も半ば、躑躅もそろそろおしまいです。次は紫陽花ですね。(哲




2012ソスN5ソスソス16ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 1652012

 南風や小猿の赤いちゃんちゃんこ

                           菊田一夫

、5月頃から吹きはじめる湿った暖かい風が南風。北風とちがって大方は待たれている風であるゆえに、日本の各地でさまざまな呼び方がされている。正南風(まみなみ、まはえ)、南風(みなみかぜ、なんぷう、はえ)、南東風(はえごち)、南西風(はえにし)……。気候と密接な関係にある農/漁業者の労働にとって,特に無視できない南から吹く風である。夏の到来を告げる風。小猿が着ている「ちゃんちゃんこ」は冬の季語だが、小猿が季節はずれのちゃんちゃんこをまだ着ているうちに,夏がやってきたよ、というやさしい気持ちが句にはこめられている。動物園などに飼われている猿ではなく、動物好きの個人に飼われて愛嬌を振りまいているのを、通りがかりに目にしたのだろう。赤いちゃんちゃんこをまだ着せたままになっていることに対する気持ちと、「もう夏だというのに……」という気持ちの両方をこめながら、作者は微笑んでいるようだ。芭蕉は「猿も小蓑をほしげなり」と詠んだが、ここはすでに「蓑」の時代ではない。加藤楸邨に「遺書封ず南風の雲のしかかり」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


May 1552012

 縦書きの詩を愛すなり五月の木

                           小池康生

がものを伝うのを見て、あるいは花や葉が風に舞い落ちるのを眺め、人は文字を縦書きに書くことを思いついたのではないか。視線を上から下へおろすことは、人間の両目の配置からして不自然なことだそうで、横書きの文章の方が早く理解できるといわれる。しかし、ものを縦になぞることには、引力のならいでもある安心感がある。パソコンに向かっていると横書きに見慣れ、常に目は左から右ばかりに移動する。紙面の美しい縦書きを追うことは、目のごちそうとも思える。立夏から梅雨に入るまでのひととき、木々は瑞々しく茂り、雲は美しく流れる。青葉に縁取られた五月の木の健やかさのもとでは、やはり縦書きの文字を追いたいと、目が欲するのではないか。一年のなかでも特別美しい月である五月に、目にもたっぷりとごちそうをふるまってあげたい。〈ペン先を湯に浸しおく青嵐〉〈家族とは濡れし水着の一緒くた〉『旧の渚』(2012)所収。(土肥あき子)


May 1452012

 丁寧に暮らす日もあり新茶汲む

                           奥田友子

にとめて、すぐにどきりとした。私には「丁寧に暮らす」という意識がほとんどない。大げさではなく、生まれてこのかた、大半の日々を行き当たりばったりに暮らしてきた。貧乏性に近いと思うのだが、常に何かに追いまくられている感じで暮らしており、生活や人生に落ち着きというものがない。友人などには反対に、少なくとも見かけは、何事にも丁寧につきあい、悠然としている奴がいて、どうすればあんなふうに暮らせるのかと、いつも羨しく思ってきた。そんなわけで、句の「暮らす日も」の「も」に若干救われはするけれど、しかしこれは謙遜でもありそうだ。新茶の馥郁たる香りや味を本当に賞味するには、精神的にも身体的にもよほどの強靭さとゆとりがなければ適わない。そういうことなんだろうなあ。きっと、そうなんだ。『彩・円虹例句集』(2008)所載。(清水哲男)




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