東京スカイツリー開業。まだ東京タワーにも上ったことがない。(哲




2012ソスN5ソスソス23ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

May 2352012

 袷着て素足つめたき廊下かな

                           森田たま

(あはせ)は冬の綿入れと単衣のあいだの時季に着るもので、もともとは綿入れの綿を抜いたものだったという。夏がめぐってきたから袷を着る。気分は一新するにちがいない。もちろんもう足袋も鬱陶しい時季だから、廊下の板の上を素足でじかにひたひた歩く、そのさわやかな清涼感が伝わってくる。人の身も心もより活動的になる初夏である。足袋や靴下を脱いで素足で廊下を歩き、あるいは下駄をはく気持ち良さは、今さら言うまでもない。人間の素肌がもつ感覚にはすばらしいものがある。ところで、森田たまを知る人は今や少なくなっているだろうが、『もめん随筆』『きもの随筆』『きもの歳時記』などで知られた人の句として、掲句はなるほどいかにもと納得できる。ひところ参議院議員もつとめ、1970年に75歳で亡くなった。「いささかのかびの匂ひや秋袷」という細やかな句もある。また三橋鷹女には「袷着て照る日はかなし曇る日も」がある。『文人俳句歳時記』(1969)所収。(八木忠栄)


May 2252012

 雲雀には穴のやうなる潦

                           岩淵喜代子

日の金環食の騒ぎに疲れたように太陽は雲に隠れ、東京は雨の一日になりそうだ。毎夜月を見慣れた目には、鑑賞グラスに映る太陽が思いのほか小さいことに驚いた。金環食を見守りながら、ふと貸していた金を返してもらうため「日一分、利取る」と太陽に向かって鳴き続ける雲雀(ひばり)の話を思い出していた。ほんの頭上に輝いていると思っていた太陽が、実ははるか彼方の存在であることが身にしみ、雲雀の徒労に思わず同情する。雲雀は「日晴」からの転訛という説があるように、空へ向かってまっしぐらに羽ばたく様子も、ほがらかな鳴き声も青空がことのほかよく似合う。掲句は雨上がりに残った潦(にわたずみ)に真っ青な空が映っているのを見て、雲雀にはきっと地上に開いた空の穴に映るのではないかという。なんと奇抜で楽しい発想だろう。水たまりをくぐり抜けると、また空へとつながるように思え、まるで表をたどると裏へとつながるメビウスの帯のような不思議な感触が生まれる。明日あたり地面のあちこちに空の穴ができていることだろう。度胸試しに飛び込む雲雀が出てこないことを祈るばかりである。『白雁』(2012)所収。(土肥あき子)


May 2152012

 田を植ゑしはげしき足の跡のこる

                           飴山 實

植えの終わった情景を詠んだ句は無数にあるけれど、大半は植え渡された早苗の美しさなどに目が行っている。無理もない。田植えの句を詠む人のほとんどが、他人の労働の結果としての田圃を見ているからだ。よく見れば、誰にでもこの句のような足跡は見えるのだが、見えてはいても、それを詠む心境にはなれないのである。ところが作者のような田植えの実践者になると、どちらかといえば、田圃の美しさよりも、辛い労働が終わったという安堵感のほうに意識の比重がかかるから、田植えをいわば観光的には詠めないということになる。手で植えていたころの田植えは実に「はげしい」労働だった。植え終えた田圃にも、まずその辛さの跡を見てしまう目のやりきれなさを、作者はどうしても伝えておきたかったのである。『辛酉小雪』(1981)所収。(清水哲男)




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