傘を持つのが嫌いなのでこの季節は憂鬱です。少しも進化しない傘。(哲




2012ソスN6ソスソス11ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 1162012

 ひとかなし氷菓に小さき舌出せば

                           嵩 文彦

レビを見ていると、年中誰かが物を食べていて、「うーむ、美味い」などと言っている。かつての飢えの時代を体験した私などは、たまらなくイヤな気持ちになる。「ひと」が物を食べる行為は、いかにテレビがソフィステケートしようとも、本能の根元をさらしているわけだから、決して暢気に楽しめるようなものではない。「ああ、人間は、ものを食べなければ生きて居られないとは、何という不体裁な事でしょう」と言ったのは太宰治だが、現代はそういうことにあまりに無神経過ぎる。棒状の固い氷菓は、まず舌で舐めなければならない。かぶりついても、氷菓は容易に崩れてはくれないからだ。まず舌で舐めるのは、つまり本能が我々にそうするように強いているからそうしているのである。本能の智慧なのだ。私たちは、ほとんど例外なくアイスキャンデーをそうやって食べている。このときに「ひとかなし」と作者がわざわざ言わざるを得ない気持ちを、もしかすると飢餓を知らないひとたちはわからないかもしれない。『ランドルト環に春』(2012)所収。(清水哲男)


June 1062012

 激つ瀬にうつぶし獲たる山女魚かな

                           木村蕪城

女魚(やまめ)は、渓流釣りの憧れです。尾びれ胸びれには切れがあり、斑点と縞の紋様は、他の渓流魚には見られない、あでやかな姿です。塩焼きにして皮ごと食べられる白身は、淡泊な中に味わいが濃厚で、天然の旨みを堪能できます。しかし、これを釣りあげるにはよほどの好条件が重ならなければかないません。まず、習性が敏感なので、足音、人影、気配を出せば、警戒して姿 を消します。したがって、先行する釣り人がいる場合は、沢筋を変えなくてはなりません。おのずと釣り人は、命知らずの沢登りの登攀(とはん)者となり、岩にしがみつき、脆い足場をよじ登り、人跡未踏のポイントを目指します。掲句は、そのような激(たぎ)る川瀬のポイントを見つけて、気配を消し、影をなくして、身をうつ伏しかがめて、一竿で野生の山女魚を獲た、実景実情の句でしょう。上五から中七は、動中静在り、といった釣りの要諦が示されているようです。また、「激つ瀬」は、「tagitsuse」で、母音だけとると「aiue」となり、上から下へ音が流れていますが、「うつぶし」は「utsubushi」で、「uuu」が三音続くことで、うつ伏している体勢の持続を音で表しているように受けとれます。「獲たる 」のあと、最後は「yamamekana」で、音も明るく、喜び、静かに叫んでいます。「日本大歳時記・夏」(1982・講談社)所載。(小笠原高志)


June 0962012

 豚の仔の鼻濡れ茅花流しかな

                           大久保白村

花(つばな)は茅萱(ちがや)の花、流しは湿った南風、ということで初夏、茅花の穂がほぐれる頃に吹く南風が、茅花流し。とは言え、実際に目にした記憶は定かでなかった。それが先週、近郊の住宅街を歩いていたら、ぽっかりと四角い空き地一面の茅花の穂をいっせいになびかせている白い風に遭遇。吹き渡る、という広がりこそなかったが、間近で見た花穂のやわらかい乾きと風の湿りが印象的だった。この句を引いた句集『翠嶺』(1998)には、掲出句と並んで〈黒南風や親豚仔豚身を擦りて〉とある。仔豚の鼻の湿りと茅花の穂のふんわりとした明るさ、肌と肌の擦り合う湿りと梅雨曇りのどんよりとした暗さ、二つの湿りの微妙な違いがそれぞれの風に感じられる。(今井肖子)




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