阪神マートンが二試合連続スタメン落ち。何が起きているのか。(哲




2012ソスN6ソスソス12ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 1262012

 平家蟹カゲノゴトクツキマトウ

                           小泉八雲

平家蟹
句や短歌など、日本の詩歌を英訳し紹介しつづけた小泉八雲。妻節子の『思い出の記』には「(八雲は)発句を好みまして、沢山覚えていました。これにも少し節をつけて廊下などを歩きながら、歌うように申しました。自分でも作って芭蕉などと常談を云いながら私に聞かせました。どなたが送って下さいましたか『ホトトギス』を毎号頂いて居りました。」という記述がある。そこでしばらく小泉八雲の俳句をあちこち探したが、見つけることはできなかった。実は掲句、小泉八雲の秘稿画本『妖魔詩話』(1934)に収められた八雲の草稿から見つけたものだ。これは天明老人編「狂歌百物語」に収められて狂歌を英訳したものだが、八雲は未発表のまま亡くなり、昭和9年没後にご子息一雄氏が編者となって出版した。平家蟹の項には八雲のペンによって描かれた強面の蟹のスケッチの脇に「カゲノゴトクツキマトウ」とカナで記されている。影の如く付きまとう……。蟹の甲羅に浮かぶおそろしい武士の顔を丹念に写し取るとき、思わず蟹の姿となって、ひいては安息を得られない平家の霊のひとつとなってペン先からこぼれ落ちたつぶやきであろう。はたしてこれを俳句作品として挙げるのは乱暴かもしれないが、八雲の作った俳句のようなもの、として紹介したい。(図版『妖魔詩話』「平家蟹」より)(土肥あき子)


June 1162012

 ひとかなし氷菓に小さき舌出せば

                           嵩 文彦

レビを見ていると、年中誰かが物を食べていて、「うーむ、美味い」などと言っている。かつての飢えの時代を体験した私などは、たまらなくイヤな気持ちになる。「ひと」が物を食べる行為は、いかにテレビがソフィステケートしようとも、本能の根元をさらしているわけだから、決して暢気に楽しめるようなものではない。「ああ、人間は、ものを食べなければ生きて居られないとは、何という不体裁な事でしょう」と言ったのは太宰治だが、現代はそういうことにあまりに無神経過ぎる。棒状の固い氷菓は、まず舌で舐めなければならない。かぶりついても、氷菓は容易に崩れてはくれないからだ。まず舌で舐めるのは、つまり本能が我々にそうするように強いているからそうしているのである。本能の智慧なのだ。私たちは、ほとんど例外なくアイスキャンデーをそうやって食べている。このときに「ひとかなし」と作者がわざわざ言わざるを得ない気持ちを、もしかすると飢餓を知らないひとたちはわからないかもしれない。『ランドルト環に春』(2012)所収。(清水哲男)


June 1062012

 激つ瀬にうつぶし獲たる山女魚かな

                           木村蕪城

女魚(やまめ)は、渓流釣りの憧れです。尾びれ胸びれには切れがあり、斑点と縞の紋様は、他の渓流魚には見られない、あでやかな姿です。塩焼きにして皮ごと食べられる白身は、淡泊な中に味わいが濃厚で、天然の旨みを堪能できます。しかし、これを釣りあげるにはよほどの好条件が重ならなければかないません。まず、習性が敏感なので、足音、人影、気配を出せば、警戒して姿 を消します。したがって、先行する釣り人がいる場合は、沢筋を変えなくてはなりません。おのずと釣り人は、命知らずの沢登りの登攀(とはん)者となり、岩にしがみつき、脆い足場をよじ登り、人跡未踏のポイントを目指します。掲句は、そのような激(たぎ)る川瀬のポイントを見つけて、気配を消し、影をなくして、身をうつ伏しかがめて、一竿で野生の山女魚を獲た、実景実情の句でしょう。上五から中七は、動中静在り、といった釣りの要諦が示されているようです。また、「激つ瀬」は、「tagitsuse」で、母音だけとると「aiue」となり、上から下へ音が流れていますが、「うつぶし」は「utsubushi」で、「uuu」が三音続くことで、うつ伏している体勢の持続を音で表しているように受けとれます。「獲たる 」のあと、最後は「yamamekana」で、音も明るく、喜び、静かに叫んでいます。「日本大歳時記・夏」(1982・講談社)所載。(小笠原高志)




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