昨夜は三年ぶりの野球観戦。やっぱり球場で観る野球はいいな。(哲




2012ソスN6ソスソス14ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

June 1462012

 ままこのしりぬぐひきつねのかみそりと

                           西野文代

物の固有名詞をならべただけなのにまるでお話のようだ。「ままこのしりぬぐい」はタデ科の一年草で、先っちょを紅く染めた小花が固まって咲いていると植物図鑑にはある。道端で通り過ぎても言い当てることはできそうにないが、どうしてこんな面白い名前がついているのだろう。きつねのかみそりは飯島晴子の「きつねのかみそり一人前と思ふなよ」が有名。こちらはどこかの木の茂みでホンモノを見たことがあるが、地面からひょろっと花が突き出た特異な姿だった。有毒植物ということで、こんな名前がついているのだろうか。二つ並べると「ままこの尻」、の柔らかさと、「キツネとかみそり」の配列に危うさと痛さが感じられる。嘱目で作った句かもしれないが、取り合わせた言葉が呼び寄せる不思議な世界を直観的に感じとるセンスがないとこんな句は出来ないだろう。『それはもう』(2002)所収。(三宅やよい)


June 1362012

 髪結ふやあやめ景色に向きながら

                           室生犀星

人で「あやめ」と「かきつばた」の違いがわからない人はいないだろう。わからない? 俳人たる資格はないと言っていいかも(当方などはあやしいのだが)。「あやめ」はやや乾燥した山野に生えて、花びらに網模様がある。「かきつばた」は湿地や池沼に自生して、花は濃紫である。まだ暑くはないさわやかな五〜六月頃、縁側か窓辺で女性がおっとり髪を結っているのだろう。あるいは結ってもらっているのかもしれない。前方にはあやめが群生していて、そこを吹きわたってくる風が心地よい。そう言えば、あやめの花の形は女性のある種の髪形のようにも見える。そんな意識も作者にはあったのではないかと推察される。昭和二十八年五月に、犀星は「髪を結ふ景色あやめに向きながら」と詠んだが、五日後に上掲のかたちに改めたという。なるほど「髪を結ふ景色」よりも「あやめ景色」のほうがあやめが強調され、句姿が大きく感じられないだろうか。犀星のあやめの句に「にさんにちむすめあづかりあやめ咲く」もある。『室生犀星句集』(1979)所収。(八木忠栄)


June 1262012

 平家蟹カゲノゴトクツキマトウ

                           小泉八雲

平家蟹
句や短歌など、日本の詩歌を英訳し紹介しつづけた小泉八雲。妻節子の『思い出の記』には「(八雲は)発句を好みまして、沢山覚えていました。これにも少し節をつけて廊下などを歩きながら、歌うように申しました。自分でも作って芭蕉などと常談を云いながら私に聞かせました。どなたが送って下さいましたか『ホトトギス』を毎号頂いて居りました。」という記述がある。そこでしばらく小泉八雲の俳句をあちこち探したが、見つけることはできなかった。実は掲句、小泉八雲の秘稿画本『妖魔詩話』(1934)に収められた八雲の草稿から見つけたものだ。これは天明老人編「狂歌百物語」に収められて狂歌を英訳したものだが、八雲は未発表のまま亡くなり、昭和9年没後にご子息一雄氏が編者となって出版した。平家蟹の項には八雲のペンによって描かれた強面の蟹のスケッチの脇に「カゲノゴトクツキマトウ」とカナで記されている。影の如く付きまとう……。蟹の甲羅に浮かぶおそろしい武士の顔を丹念に写し取るとき、思わず蟹の姿となって、ひいては安息を得られない平家の霊のひとつとなってペン先からこぼれ落ちたつぶやきであろう。はたしてこれを俳句作品として挙げるのは乱暴かもしれないが、八雲の作った俳句のようなもの、として紹介したい。(図版『妖魔詩話』「平家蟹」より)(土肥あき子)




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