June 282012
象の頭に小石のつまる天の川
大石雄鬼
天の川とは「微光の数億以上の恒星から成り、天球の大円に沿って淡く帯状に見える」ものと広辞苑に解説がある。インドでは象の頭をもった神様は富と繁栄、知恵を授けてくれる幸運の神様という話。象がとても賢い動物からだろう。その象の頭に小石がつまるという発想が面白い。なるほど、ゴツと天辺が飛び出したアフリカ象の頭の恰好は、なるほど小石を詰めた袋のようだ。しかも小石の詰まった頭と夜空に輝く天の川の取り合わせは、象の頭に詰まった小石が弾けて天の川になったかの如く不思議な気分になる。この作者の句は言葉の繋がりかたが独特で屈折した文脈がステレオタイプな季語の見方を少し変えてくれる。「舟虫の化石にならぬため走る」「蛍狩してきし足を抱いて眠る」『現代俳句最前線』(2003)所載。(三宅やよい)
October 042012
水澄んで段差になつてをりし父
大石雄鬼
水に映る自分の姿に見入るのはナルキッソスの話から何らの自意識の投影と思われる。ところがこの句ではその影を「段差になる」と表現している。底まで清らかに澄んでいる水面に映っている父としての自分の影が段差になって見えている。屈折するその影が日常見過ごしている違和感を表しているようだ。父とは母と違いむくわれない存在であるように「母」体験者である自分などは思う。母子は言葉を超えての密着が在るが故、確執も愛憎も激しい。それに比べ「父」は家庭を維持する経済的負担と精神的負担が大きいわりに親密さに置いては蚊帳の外である。「父」という言葉には家族の中での孤独が隠されているように思う。「段差になってをりし父」とそれを見ている自分と突き放して描き出すことで、そこはかとない哀愁を感じさせる。『だぶだぶの服』(2012)所収。(三宅やよい)
January 152015
祖父逝きて触れしことなき顔触れる
大石雄鬼
大寒のころになると「大寒の埃の如く人死ぬる」という高浜虚子の句を思い出す。一年のうちでもっとも寒い時期、虚子の句は非情なようで、自然の摂理に合わせた人の死のあっけなさを俳句の形に掬い取っていて忘れがたい。私の父もこの時期に亡くなった。生前は父とは距離があり、顔どころか手に触れたことすらなかった。しかし亡くなった父の冷たい額に触れ、若かりし頃広くつややかだった額が痩せて衰えてしまったことにあらためて気づかされた。多くの人が掲句のような形で肉親と最後のお別れをするのではないか。掲載句は無季であるが虚子の句とともにこの時期になると胸によみがえってくる。『だぶだぶの服』(2012)所収。(三宅やよい)
September 242015
手の音もまじり無月の鼓うつ
大石雄鬼
鼓を打つのは手ではあるが、手の音も混じるとは、鼓の縁を打つ響きなのだろうか。真っ暗な雲に月は見えないが故に雲に隠された煌々と輝く月の存在をかえって強く感じさせる。「いよーっ」と合いの手を入れながら打つ鼓は一つなのだろうか、無数に並んでいるのか。いずれにせよ「手の音」と即物的に表現したことで鼓を打つ手が生き物のようで少し不気味である。無月の「無」が後の叙述を実在しない光景のようにも感じさせて前半のリアルな描写と絶妙なバランスを保っている。余談だが、「鼓月」という銘菓が京都にある。鼓と月は相性がいいのだろか。お菓子の命名の由来は「打てば響く鼓に思いを寄せ、その名中天の月へも届け」という願いを込めて名付けられたそうだ。今年の月はどんな月だろう。『だぶだぶの服』(2012)所収。(三宅やよい)
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