そうか、ロンドン五輪まであと三週間だ。開会式がいちばん楽しみ。(哲




2012ソスN7ソスソス6ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 0672012

 鳥葬図見た夜の床の 腓返り

                           伊丹三樹彦

葬図でなくて鳥葬そのものだったらもっと良い句だったのにと考えたあとで思った。しかし鳥葬の実際を目の当たりにできるのかどうかと。岩の上などに置かれた遺体を降りてきた鳥が啄む瞬間など、現実として行われているにしてもプライベートな厳かな儀式でとても見ることなど許されないのではないか。死者の尊厳。そんなことを考えていて柩の窓のことをふと思った。参列者へのお別れとして柩の窓から死者の顔を見る。見る側は見納めとして見るのだが見られる側はどうなのかな。もう意識はないのだからどうでもいいのか。知人は両親共亡くしたあと「こんどは俺が死顔を見られる番だ」と語った。その知人も過日亡くなり僕は柩の窓からお顔を見てきた。ほんとうに嫌だったら遺言しておく手もあったのだから、まあ、そんなことは彼にとってはどっちでもよかったのだと思った。やっぱり鳥葬じゃなくて鳥葬図くらいで良かったのかもしれない。『伊丹三樹彦研究PARTII』(1988)所載。(今井 聖)


July 0572012

 親殺し子殺しの空しんと澄み

                           真鍋呉夫

月の5日、真鍋呉夫氏が亡くなった。文庫版の句集しか読んだことはないが、俳壇の中にある俳人とは違う時空を広げる句に心惹かれるものがあった。「親殺し」「子殺し」の記事が日々新聞にあふれている。余裕のない世間に孤立しがちな苛立ちを一番身近にいる対象にぶつけ、憎み傷つけてしまう愚かしさ。人を殺めるのは瞬間であっても、一線を越えた後の地獄は文学の中で繰り返し語られてきた。親殺し、子殺しの横行する現代、同時代を生きている誰もが多かれ少なかれ追い詰められた空気を共有している。しかし、そんな人間たちの頭上に広がる空はしんと澄みわたり人間の愚行を見下ろしているようだ。その絶景は、地球を覆う人間がことごとく滅亡した終末の空へとつながっているのかもしれない。『雪女』(1998)所収。(三宅やよい)


July 0472012

 老鶯の声捨ててゆく谷深し

                           新井豊美

は「春告鳥」とも「歌詠鳥」とも呼ばれ、言うまでもなく春の鳥である。しかし、春の頃はまだ啼きはじめだから、声はいまだしの感があってたどたどしい。季節がくだるにしたがって啼きなれて、夏にはその声も鍛えられて美しくなってくる。そうした鶯は「老鶯(おいうぐひす)」とも「残鶯」とも呼ばれて、夏の季語である。谷渡りする鶯だろうか、声を「捨ててゆく」ととらえたところが何ともみごとではないか。美しい声を惜しげもなく緑深い谷あいに「捨てて」、と見立てたところが、さすがに詩人の鋭い感性ならでは。鶯の声は谷あいに涼しげに谺して、いっそう谷を深いものにしている。数年前に鎌倉の谷あいでしきりに聴いた老鶯の声を思い出した。うっとりと身をほぐすようにして、しばし耳傾けていたっけ。(豊美さんの声も品良くきれいだったことを思い出した。)二〇〇九年七月のある句会で特選をとった句だという。同じ時の句「この道をどこまでゆこう合歓の花」も特選をさらった。「鶺鴒通信」夏号(2012)所載。(八木忠栄)




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