@句

July 0672012

 鳥葬図見た夜の床の 腓返り

                           伊丹三樹彦

葬図でなくて鳥葬そのものだったらもっと良い句だったのにと考えたあとで思った。しかし鳥葬の実際を目の当たりにできるのかどうかと。岩の上などに置かれた遺体を降りてきた鳥が啄む瞬間など、現実として行われているにしてもプライベートな厳かな儀式でとても見ることなど許されないのではないか。死者の尊厳。そんなことを考えていて柩の窓のことをふと思った。参列者へのお別れとして柩の窓から死者の顔を見る。見る側は見納めとして見るのだが見られる側はどうなのかな。もう意識はないのだからどうでもいいのか。知人は両親共亡くしたあと「こんどは俺が死顔を見られる番だ」と語った。その知人も過日亡くなり僕は柩の窓からお顔を見てきた。ほんとうに嫌だったら遺言しておく手もあったのだから、まあ、そんなことは彼にとってはどっちでもよかったのだと思った。やっぱり鳥葬じゃなくて鳥葬図くらいで良かったのかもしれない。『伊丹三樹彦研究PARTII』(1988)所載。(今井 聖)


July 1372012

 河尽きる灯のあるところ夜具のべられ

                           林田紀音夫

ームレスの人の様子に見える。河尽きるは海辺ということだろう。考えてみれば日本の都市のほとんどは海辺にある。海に囲まれた国ですからね。このごろ話題の生活保護費の不正受給の人なんかよりホームレスの人はどこか誠実に思える。そもそも住所不定では生活保護も受けられない。少し前だったか、新入社員研修で路上で何日か寝起きすることを課した会社があった。人の足元からの目線が営業においては大切だというような理屈だったような。俳人も路上吟行と称して人間と情況のウオッチングなんかも現在に深く切り込めるかもしれない。「俳句界」(2008年6月号)所載。(今井 聖)


July 2772012

 草の中滑走路は取り返しがつかない

                           上月 章

が自然で滑走路が文明というふうに対比させ、対峙させると草は良い役で滑走路が悪役という図式になるのか。いつも自然は文明に蹂躙されるということか、そんな簡単な句なのか。どうもちょっと違うような気がする。制空権を取るために、また日本本土爆撃を可能にするためにサイパン島は死闘の島となった。この島を獲るのは滑走路をつくって日本を爆撃するためだ。東京大空襲の爆撃機はこの島の滑走路から飛び立ったのだった。そんな戦略としての「取り返しのつかなさ」の方が現実感をもって読める。滑走路を原発に換えて考えたらというような読みに僕は価値を置かない。『感性時代の俳句塾』(1988)所載。(今井 聖)


August 0382012

 お祭りに行くと絶対はさんする

                           阿部順一郎

学生がつくった句というのを目にするが、どうも嘘くさいのもある。発想と書き方を親が手伝ったんじゃないかと思わせる句があるのだ。親や教師が手伝うと往々にして切れに「ね」や「よ」がリズミカルに入る。形を整えるアドバイスはまあ仕方ないとしても発想が従来の俳句観に沿っていたり、ありきたりの「童心」のごときものを見せられるとがっかりする。大人から見た「童心」と子供の本心は違うんじゃないか。子供には大人の想像もつかないような発見や奇想が詰ってるんじゃないかと思うけど、逆にそれが過大な幻想なのか。この句は正真正銘小学生の感慨に思える。大人がアドバイスしたら「はさん」は出ないだろう。もう一度小学生に戻れたらこんな奴と親友になりたい。毎日楽しいだろうな。絶対東大には行けないだろうけど。『平成23年度NHK全国俳句大会入選作品集』(2011)所載。(今井 聖)


August 1082012

 アッツの照二仔猫をまこと怖がりし

                           野宮猛夫

ッツの照二だけで、第二次大戦で日本軍が全滅したアッツ島にいた照二という兵隊であることが思われる。それ以外の展開はアッツの照二から僕は想像できない。最後の一兵まで突撃して生存者は1パーセント。だから屈強の兵だったことだろう。そのつわものが仔猫を怖がった。面白い。面白いが悲しい。おもしろうてやがて悲しきである。ほんとうに照二さんはいたのだろう。フィクションだったら山田洋次になれる。この句に並んで同じ作者の「くつなわ首に捲く照三も野に逝けり」がある。くつなわはくちなわのこと。自身の北海道訛がそのまま句になった。この二句がある限り照二と照三は忘れられることはない。確かに二人はこの世界に存在したと、読む者が確認する。「週刊俳句」(2011年4月24日号)所載。(今井 聖)


August 1782012

 質問の多き耳順の新入生

                           廣川坊太郎

十にして耳順(したが)う。論語の中の言葉。この新入生は六十歳にして入学してきた。放送大学か通信教育のスクーリングか。入学の季節は春か秋か。そんなことはどっちでもいい。六十歳の新入生が先生に質問を繰返す。質問の多さはこの新入生の熱意をあらわす。わからないことは訊くのだ。肉体年齢の先は見えている。恥もひったくれもない。四十歳を過ぎてカルチャースクールにシナリオの書き方を習いに行ったことがある。課題に四苦八苦している同じような年齢の僕らに師が言った。「不思議だ。君たちはどうしてもっと焦らないのか」。やらなければならないことが山ほどある。どれから手をつけたらいいのかもわからないほどのとてつもない量だ。やってもやっても追いつかない。六十にもなって偉いねという句ではない。この生徒の切実さが身に沁みて哀しい。この句も面白うてやがて悲しきだ。「横浜俳句鍛錬会報・2012年6月」所載。(今井 聖)


August 2482012

 蠅の舌強くしてわが牛乳を舐む

                           山口誓子

あ、やっぱり誓子だなあ。誓子作品についてよく言われる即物非情の非情とは、これまで「もの」が負ってきたロマンを一度元に戻すことだ。蝶は美しい。蛾は汚い。黒揚羽は不吉。ぼうふらは汚い。蠅は汚い。みんな一度リセットできるか。それが写生ということだと誓子は言っている。子規が言い出して茂吉もそう実践している。生きとし生けるものすべてに優しさをとかそんなことじゃない。「もの」をまだ名付けられる前の姿に戻してまっさらな目でみられるか。この「強くして」がいいなあ。「生」そのものだ。『戦後俳句論争史』(1968)所載。(今井 聖)


August 3182012

 秋草や妻の形見の犬も老い

                           本井 英

句といえど自己表現なんだから他者と自己との識別をこころがけていくべきだ云々、僕が口角泡を飛ばして言ったとき聞いていた本井さんがぽつりと言った。「あなたは自己、自己っていうけど人はやがてみんな死ぬんだよ」。本井さんは少し前に奥方を亡くされていたのだった。死生観を踏まえての俳句の独自性を彼は「虚子」の中に見出した。平明で秋草という季節の本意もまことに生かされている。妻は泉下に入り犬は老い秋はまた巡ってきた。俳句の身の丈に合った述懐であることはよくわかる。この句はこれでいい、しかしと僕は言いたいのだが。『八月』(2009)所収。(今井 聖)


September 0792012

 みづうみに盆来る老の胸乳かな

                           大峯あきら

い句。みづうみと盆と老を並べたところであらかた想像できる類型的な俳諧趣味を胸乳で見事に裏切り人間臭い一句となった。老と盆は近しい関係。なぜなら老はもうすぐ彼岸にいく定めだから。その老についている乳房は子供を産んで育てた痕跡である。産んで老いて彼岸に行く。そんな巡りを静かに肯定している。この肯定感こそ虚子が言った極楽の文学だ。『鳥道』(1981)所収。(今井 聖)


September 1492012

 滝の上深作欣二の叫び声

                           秋山巳之流

者は人の名前を詠みこんだ挨拶句を多く作った。俳句の本質は挨拶にありと思っていたのかもしれない。俳句は個人的なものだと思っていたのかもしれない。多くの挨拶句の中で僕はこの句が好きだ。深作は映画「仁義なき戦い」、「バトル・ロワイヤル」の監督。前立腺癌がわかったとき性機能が失われると言われて手術を拒否した人。ブルーハーツが好きで葬儀で「1001のバイオリン」を流すようにと遺言した人。その人が滝の上で何か叫んでいる。滝の轟音と重なって何を叫んでいるのかわからないような絶叫のイメージだ。そういえば巳之流さんも同じ時期、癌との闘病中だったのだ。『秋山巳之流全句集』(2012)所収。(今井 聖)


September 2192012

 洞窟夜会 赤葡萄酒に 現世の声

                           伊丹公子

まれた地について知識などぬきにしてこの一句だけで見ると、「洞窟夜会」とはなんて素敵な造語だろう。岩肌が蝋燭の火で見えるような背景でのパーティだ。雪を掘って作ったかまくらの中に灯を置くのは日本版夜会。これと同じようなものか。異国だから着てるものも派手。肌の色と服の色と葡萄酒の赤がお似合いだ。こんなところに入りこんだらそれこそ夢か現かわけのわからない心境になるに違いない。声も外国の言葉で意味が不明なところが「現世の声」という違和感を誘発している。かまくらもいいけどこんな場所にも迷いこんでみたい。『伊丹公子全句集』(2012)所収。(今井 聖)


September 2892012

 ローマ軍近付くごとし星月夜

                           和田悟朗

白い比喩だなあ。そういう予感があって星空を見上げたというドラマの設定ではなくて星空そのものをローマ軍に喩えた句だ。この句の面白さはなぜ「ローマ軍」なのかの一点。星の数から連想される大軍のイメージ。ならば家康軍でも蒙古軍でも米軍でもソ連軍でもいいのだけれど作者にとってはローマ軍なのだ。歴史ドラマではローマ軍は悪役になることが多い。でもこの句には悪役が近づいてくる危機感なんかない。ギリシャ軍だと悲劇は演出できるけど星の数ほどの大軍のイメージはないし。そんな入れ替えが楽しめる句だ。『季語きらり100』(2012)所収。(今井 聖)


October 05102012

 遠蜩何もせざりし手を洗ふ

                           友岡子郷

もしてないのにどうして手を洗うのだ、可笑しいな。という意味にとると日常の無意識の動作を詠んだ句になる。でもそれは何もしてない、汚れてもいないのに手を洗ったという面白くもないオチにもなる。この句は何もしていないことを喩として詠んでいる自己否定の句だ。ほんとうに自己否定している句は少ない。自己を戯画化しているようでどこかで自分を肯定している作品もある。こんなつまらねえ俺なんかに惚れてねえで嫁に行きやがれ、なんて昔の日活映画だ。俳句を自解する人も自句肯定の人だ。意図通りの理解を強く望んでいる。何もせざりしという述懐に作者の生き方、考え方が反映している。『黙礼』(2012)所収。(今井 聖)


October 12102012

 秋の夜の畳に山の蟇

                           飯田龍太

穴を出づといえば春の季語。蟇だけだと夏の季語。この句秋の夜の蟇だから理屈でいえば冬眠前の蟇ということになろうか。山国ならではの実感に満ちた句だ。一句の中に季語を二つ以上用いるのはやめた方がいいと初心の頃は教わる。まして季節の異なる季語を併用するのは禁忌に等しい。そこを逆手に取って最近は敢えて一句に季語を二つ以上使ってみせる俳人もいるが技術の披瀝を感じるとどこかさびしい。この句、季語を二つ使ってみました、どんなもんだの押し付けはない。自然で素直で、インテリジェンスもダンディズムも感じない。本当の本物だ。『蛇笏・龍太の山河』(2001)所収。(今井 聖)


October 19102012

 誰彼もあらず一天自尊の秋

                           飯田蛇笏

名な句だ。蛇笏の臨終の句とも辞世の句とも言われている。一方で最後の句集の末尾に載っているのでそう言われているだけで単なる句集の配列でそうなったのだという説もある。解釈に於いてもさまざまあるようだ。自尊は蛇笏自身を言ったもので天に喩えて自らの矜持を詠んでいるという鑑賞もあるが、僕は、天=自分の喩えではなく天そのものを擬人法で捉えた句と読みたい。世事のあれこれはどうでもいいこと。天は天として自ずから厳然と超然と存在している。そんな秋である。というふうに。『蛇笏・龍太の山河』(2001)所収。(今井 聖)


October 26102012

 尋ね人尋ねつづける天の川

                           吉田汀史

だ小学生の頃だったろうか、新聞に尋ね人の欄があったように記憶している。ラジオでもそれだけを読み上げる番組があったような。1950年という僕の生年は若い頃は戦争を知らない子供などと新時代の始まりを強調されたが、考えてみると日本中に爆弾が降った戦争が終わってまだ5年しか経っていなかったのだ。シベリア抑留の人たちもまだ舞鶴に着いていた。尋ね人は行方不明の人たち。今日も多くの新しい「尋ね人」が生まれている。『汀史虚實』(2006)所収。(今井 聖)


November 02112012

 終刊の号にも誤植そぞろ寒

                           福田甲子雄

植は到るところに見られる。気をつけていても出てしまう。僕も第一句集の中の句で壊のところを懐と印刷してしまった。その一冊をひらくたび少し悔やまれる。自分の雑誌で投句の選をしているので誤字、脱字、助詞の用法などを直したつもりでいると作者からあとで尋ねられたりする。大新聞と言われる紙面に誤植を見ることはめったにないが、それでもたまに見つけるとなぜかうれしくなる。終刊の号にも誤植がみつかる。誤植は人間がやることの証。業のようなものだ。月刊「俳句」(2012年6月号)所収。(今井 聖)


November 09112012

 水鳥に投げてやる餌のなき子かな

                           中村汀女

の句所収の『汀女句集』は序文を星野立子が書いていて、その序文の前、つまり句集の巻頭には虚子の「書簡」が掲げられている。拝啓で始まり怱々頓首で終わる汀女宛の実際の書簡である。これが面白い。あなた(汀女)は私(虚子)に選のお礼を述べられたが「もう何十年かあなた許りで無く、何百人、何千人、或は何万人といふ人の句を毎日選び続けて今日まで参りました。」そんな多くの句の選をして疲労せずにいることができるのは、それらの中に自分を驚喜せしめ興奮せしめる句があるからで、あなたが私に感謝なさるよりも私の方こそあなたに感謝しなければならないと書く。ここまでなら謙虚で品のいい指導者らしい言い方になるが虚子はもちろんそこで終わらない。「併し斯んなことをいふたが為めに、あなたの力量を過信なさっては困ります。(中略)今日の汀女といふものを作り上げたのは、あなたの作句の力と私の選の力とが相待って出来たものと思ひます。」と続ける。そもそも選のお礼を虚子に言ってきているのだから汀女は言われるまでもなくわかっているのだが、虚子はえげつなく誰のおかげだと念を押す。さらに想像して言えば、この汀女宛の「書簡」が巻頭に載って多くの門弟たちに読まれることを虚子は知っていたので(当然汀女はあらかじめ許可を得ているはず)、その機会を借りて組織のヒエラルキー護持と権威への信奉を強調したとも取れる。やっぱり怪物だなあ。この句集、子を詠んだ秀句が多い。この句もテーマは水鳥ではなく子どもの「気持」そのものが眼目である。『汀女句集』(1944)所収。(今井 聖)


November 16112012

 頸捩る白鳥に畏怖ダリ嫌ひ

                           佐藤鬼房

家や音楽家、詩人、小説家など芸術家の名前を用いる句は多い。その作家の一般的な特徴を通念として踏まえてそれに合うように詠うパターンが多い。例えば桜桃忌なら放蕩無頼のイメージか、はにかむ感じか、没落の名家のイメージか。そんなのはもう見飽きたな。「ダリ嫌ひ」は新しい。嫌ひな対象を挙げたところが新しいのだ。「ダリ嫌ひ」であることで何がわかるだろう。奇矯が嫌いなんだ鬼房はと思う。頸を捩る白鳥の視覚的風景だけで十分にシュールだ。この上何を奇矯に走ることがあろうか。現実を良く見なさい。ダリ以上にシュールではありませんか。鬼房はそういっている。『半迦坐』(1989)所収。(今井 聖)


November 23112012

 珊太郎来てすぐ征くや寒に入る

                           加藤楸邨

澤珊太郎始めて来訪、の前書きがある。珊太郎は兜太の親友。楸邨宅には金子兜太が伴ってきたのだろう。兜太は熊谷中学を卒業したあと、昭和十二年に水戸高校文科に入学。一年先輩に珊太郎が居て誘われるままに校内句会に出たのが俳句との機縁である。その折作った「白梅や老子無心の旅に住む」が兜太初の句。珊太郎は作家星新一の異母兄。水戸高校俳句会を創設し、竹下しづの女と中村草田男の指導による「成層圏句会」の会員となりその後草田男の「萬緑」の立ち上げに関った。その後兜太たちと同人俳誌『青銅』を発刊。三十七年には『海程』創刊に発行人として参加。晩年は『すずかけ』の主宰者として活動した。この年、珊太郎二十五歳。兜太二十四歳。楸邨三十六歳。同じ号に「寒雷野球部第一回戦の記」と題して、寒雷軍(楸邨主将)対東京高師野球部(二軍)の対戦が府立八中の運動場で行われ寒雷軍が四対三で勝ったことが載っている。みんな若かった。「寒雷・昭和十七年三月号」(1942)所載。(今井 聖)


November 30112012

 寒雀瓦斯の火ひとつひとつ點きぬ

                           能村登四郎

四郎31歳の時の句。大学を卒業後昭和14年28歳で「馬酔木」に投句。それから三年後の作品で「寒雷」にも投句していたことがわかる。「寒雷集」二句欄、もう一句は「卒業期もつとも遠き雲の朱」。両方とも若き教師としての生活がうかがわれる作品である。同じ二句欄に森澄雄の名前もある。澄雄の方は「寒天の松暮れてより夕焼くる」「かんがふる頬杖の手のかぢかみて」。ふたりともすでに生涯の傾向の萌芽が明らか。太平洋戦争開戦から三ヶ月。緒戦の勝った勝ったの熱狂の中でこのような素朴な生活感に眼を遣った句が詠まれていたことに瞠目する。「寒雷・昭和十七年三月号」(1942)所載。(今井 聖)


December 07122012

 ふるさとの氷柱太しやまたいつ見む

                           安東次男

の号の楸邨選の巻頭句。居住地の欄に「軍艦〇〇」と伏字のある記載。三席の青池秀二は「〇〇部隊」となっている。機密事項だったのだ。次男は現在の岡山県津山市生れ。鳥取県との県境にある城下町である。山に囲まれた盆地で近くにはスキー場なども多く寒気は厳しい。海軍兵役を務めた次男は艦上でふるさとの氷柱に思いを馳せている。ミッドウエーで空母の大半を失った日本海軍はオーストラリアの北方にあるカダルカナル島を次の攻勢拠点として占領、飛行場を建設して制空権の確保を目指したが惨敗。その周辺のソロモン海の海戦でも敗走を繰り返した。そんな時期の軍艦〇〇上の感慨である。「寒雷・昭和十八年三月号」(1943)所載。(今井 聖)


December 14122012

 雪雲や屋根青き寺遠く見ゆ

                           外山滋比古

者20歳のときの作品。作者は東京文理科大学出身で加藤楸邨の後輩。楸邨は国文科だが、作者は英文科。恩師は福原麟太郎であったと記憶している。この当時は東京高等師範学校在学中。高等師範は師範学校で教える教師を養成するのが主目的。有能な先生をつくる先生の養成と言えばいいか。そんな青年が戦中何を考えていたのか興味が湧く。英文学、教育、俳句に関する数多くの著書がある。この句、遠近法の構図。雪雲と屋根青き寺の対照にどこか英文科らしいダンディズムが感じられる。「寒雷・昭和十八年三月号」(1943)所載。(今井 聖)


December 21122012

 雪二日馬も偽装の白衣着ぬ

                           須合軍曹

号は軍隊の階級のまま。「寒雷集」次巻頭三句の中の一句。投句地は営口とある。営口は中国遼寧省の遼河河口の港湾都市。従軍地からの投句である。そうか、雪中では馬に偽装のための白衣を着せたんだなと軍の装備の細やかさにあらためて驚く。この句、表現に無駄のない良い句である。ヒューマニズムや反戦意識の押し付けは「正義」ばかりが表に出て今ふうにいうと「どや顔」の俳句になる。こういう淡々と事実を見据えた表現にこそ時代の真実が浮き彫りになる。軍曹は下士官。僕らの世代は人気テレビ映画「コンバット」のヴィック・モロー扮するサンダース軍曹を思い出す。最前線に張り付いて部下を愛し叱咤しながら敵を粉砕してゆく「現場監督」だ。須合軍曹は果たして生還できたのかどうか。「寒雷・昭和17年3月号」(1942)所載。(今井 聖)


December 28122012

 蛾を救ひその灰色をふりむかず

                           加藤知世子

のとき作者34歳。前書きに「夫に」とある。楸邨は4歳年上。結婚14年目の作品である。三月号所載で他は冬季の句が並んでいるからこの蛾は冬の蛾と解していい。楸邨が蛾をつまんで外に置いた。「救ひ」だから放ったというよりもそっと葉の上にでも置いたのであろう。妻はその蛾が気になっているのだが、夫はもう見向きもしない。楸邨という人、それを見ている妻の心境。夫婦の独特の呼吸が伝わってくる。同号の楸邨作品に「芭蕉講座發句篇上巻」成ると前書きを置いて「寒木瓜のほとりにつもる月日かな」の一句。楸邨の人柄がただただ懐かしい。「寒雷・昭和十八年三月号」(1943)所載。(今井 聖)




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