七夕。お盆もそうだけど、どうも新暦の七夕はピンと来ない。(哲




2012ソスN7ソスソス7ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 0772012

 人生の輝いてゐる夏帽子

                           深見けん二

の夏帽子は白くて大きく、その主は若く華やかな女性、こぼれんばかりの笑顔がまぶしいのだ、と一人が言った。すると、いやいや、この夏帽子は麦わら帽かピケ帽でかぶっているのは少年、希望に満ちあふれ悩みもなく、明るい未来を信じている今が一番幸せなのだ、と別の誰か。さらに、いやこの夏帽子の主は落ち着いた奥様風の女性、上品な帽子がよく似合っていて、いろいろあったけれど今が幸せ、という雰囲気が感じられるのだ、と言う人もいて、夏帽子の印象はさまざまだった。たまたま、作者にお目にかかる機会があり、それとなくうかがうと「人生、という言葉を使いましたからねえ、あまり若くはないかな。まあ、なんとなく今が幸せ、というふうに見えたんですよ」と。作者の眼差しは客観的で、それによって読み手は無意識のうちに、自分の人生の一番輝いている、または、輝いていたと思う姿をそこに見るのかもしれない。俳誌「花鳥来」(2012年夏号)所載。(今井肖子)


July 0672012

 鳥葬図見た夜の床の 腓返り

                           伊丹三樹彦

葬図でなくて鳥葬そのものだったらもっと良い句だったのにと考えたあとで思った。しかし鳥葬の実際を目の当たりにできるのかどうかと。岩の上などに置かれた遺体を降りてきた鳥が啄む瞬間など、現実として行われているにしてもプライベートな厳かな儀式でとても見ることなど許されないのではないか。死者の尊厳。そんなことを考えていて柩の窓のことをふと思った。参列者へのお別れとして柩の窓から死者の顔を見る。見る側は見納めとして見るのだが見られる側はどうなのかな。もう意識はないのだからどうでもいいのか。知人は両親共亡くしたあと「こんどは俺が死顔を見られる番だ」と語った。その知人も過日亡くなり僕は柩の窓からお顔を見てきた。ほんとうに嫌だったら遺言しておく手もあったのだから、まあ、そんなことは彼にとってはどっちでもよかったのだと思った。やっぱり鳥葬じゃなくて鳥葬図くらいで良かったのかもしれない。『伊丹三樹彦研究PARTII』(1988)所載。(今井 聖)


July 0572012

 親殺し子殺しの空しんと澄み

                           真鍋呉夫

月の5日、真鍋呉夫氏が亡くなった。文庫版の句集しか読んだことはないが、俳壇の中にある俳人とは違う時空を広げる句に心惹かれるものがあった。「親殺し」「子殺し」の記事が日々新聞にあふれている。余裕のない世間に孤立しがちな苛立ちを一番身近にいる対象にぶつけ、憎み傷つけてしまう愚かしさ。人を殺めるのは瞬間であっても、一線を越えた後の地獄は文学の中で繰り返し語られてきた。親殺し、子殺しの横行する現代、同時代を生きている誰もが多かれ少なかれ追い詰められた空気を共有している。しかし、そんな人間たちの頭上に広がる空はしんと澄みわたり人間の愚行を見下ろしているようだ。その絶景は、地球を覆う人間がことごとく滅亡した終末の空へとつながっているのかもしれない。『雪女』(1998)所収。(三宅やよい)




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