梅雨明け前の大雨は例年のことだが、今年はいささか激しすぎる。(哲




2012ソスN7ソスソス8ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 0872012

 ゆるやかに着てひとと逢ふほたるの夜

                           桂 信子

るやかに浴衣を着てひとに逢う。一緒に蛍を見に行く仲だから、たぶん逢いびきでしょう。ややしどけなく着付けをした足もとは草履ですから、水辺の小径を、小股にちょぼちょぼと歩かなくてはなりません。蛍は、月明かりがあっても明滅しないほどですから、漆黒の闇の中、二人、草間の小径をそろりそろりと手をひいて、つかずはなれずあゆみをいっしょに歩きたい。句には、そんな期待があります。七夕は、織姫と牽牛の年に一度の逢瀬。地上の水辺では、蛍が発光し、求愛しています。女がゆるやかに浴衣を着てひとに逢うとき、男は、その胸の裏から発光する輝きを垣間見なくてはならないのではないか、と、こちらもその光に照らされなくてはならないんじゃ ないか、と、現実ではなかなかほとんどあり得ぬシチュエーションながら、妄想の中で決意 する次第であります。「日本大歳時記・夏」(1982・講談社)所載。(小笠原高志)


July 0772012

 人生の輝いてゐる夏帽子

                           深見けん二

の夏帽子は白くて大きく、その主は若く華やかな女性、こぼれんばかりの笑顔がまぶしいのだ、と一人が言った。すると、いやいや、この夏帽子は麦わら帽かピケ帽でかぶっているのは少年、希望に満ちあふれ悩みもなく、明るい未来を信じている今が一番幸せなのだ、と別の誰か。さらに、いやこの夏帽子の主は落ち着いた奥様風の女性、上品な帽子がよく似合っていて、いろいろあったけれど今が幸せ、という雰囲気が感じられるのだ、と言う人もいて、夏帽子の印象はさまざまだった。たまたま、作者にお目にかかる機会があり、それとなくうかがうと「人生、という言葉を使いましたからねえ、あまり若くはないかな。まあ、なんとなく今が幸せ、というふうに見えたんですよ」と。作者の眼差しは客観的で、それによって読み手は無意識のうちに、自分の人生の一番輝いている、または、輝いていたと思う姿をそこに見るのかもしれない。俳誌「花鳥来」(2012年夏号)所載。(今井肖子)


July 0672012

 鳥葬図見た夜の床の 腓返り

                           伊丹三樹彦

葬図でなくて鳥葬そのものだったらもっと良い句だったのにと考えたあとで思った。しかし鳥葬の実際を目の当たりにできるのかどうかと。岩の上などに置かれた遺体を降りてきた鳥が啄む瞬間など、現実として行われているにしてもプライベートな厳かな儀式でとても見ることなど許されないのではないか。死者の尊厳。そんなことを考えていて柩の窓のことをふと思った。参列者へのお別れとして柩の窓から死者の顔を見る。見る側は見納めとして見るのだが見られる側はどうなのかな。もう意識はないのだからどうでもいいのか。知人は両親共亡くしたあと「こんどは俺が死顔を見られる番だ」と語った。その知人も過日亡くなり僕は柩の窓からお顔を見てきた。ほんとうに嫌だったら遺言しておく手もあったのだから、まあ、そんなことは彼にとってはどっちでもよかったのだと思った。やっぱり鳥葬じゃなくて鳥葬図くらいで良かったのかもしれない。『伊丹三樹彦研究PARTII』(1988)所載。(今井 聖)




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