蒸し暑くて、動きがとれない。高校球児の頑健さには感心する。(哲




2012ソスN7ソスソス17ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 1772012

 恐竜の踊る仕草や昼寝覚め

                           合谷美智子

しかに恐竜といって思い浮かべたティラノサウルスには、大きな頭と二足歩行する立派な足、そしておぼつかない腕のようなものが付いている。国立科学博物館のHPによると、全長12メートルもあるティラノサウルの腕の長さは大人の人間のそれとほとんど変わりないという。そんな華奢なものが一体なんの役に立つのだろうか。あらためて見れば見るほど奇妙な具合で、指は2本あり、その用途はいまだはっきりしていない。強面の巨体の胸についた腕をぱたぱたと動かす姿を想像すればなにやら滑稽で、掲句の通りまるで盆踊りでも踊っているように見えるのではないか。恐竜にはまだまだ謎が多く、皮膚が残っていないことからその色彩もはっきりしない。もしかしたら黄色と赤のストライプという鮮やかな配色の可能性もあったかもしれない。昼寝の覚め際には、もぞもぞと寝返りを打ちながら夢の記憶をまさぐるような時間がある。目の前を原色の恐竜がひた走り、激しい咆哮を聞き、草原の強い風のなかから抜け出してしまうのは、なんとも惜しい。〈あめんぼに四角き影のありにけり〉〈父のゐて母美しや夕端居〉『一角獣』(2012)所収。(土肥あき子)


July 1672012

 川床に来て氷金時などいふな

                           松村武雄

都には六年住んだが、「川床(ゆか)」には一度も縁がなかった。どだい学生風情が上がれるような気安いところではなかったから、毎夏鴨川の道端からそのにぎわいを遠望するだけで、あそこには別の人種がいるんだくらいに思っていた。たまさかそんな川床に招かれた作者は、京情緒を満喫すべく、しかもいささか緊張気味に坐っている。で、料理の注文をとなったときに、同席の誰かが大きな声で「氷金時」と言ったのだ。たぶん、そういう場所で遊び慣れた人なのだろう。が、緊張気味の作者にしてみれば、せっかくの心持ちが台無しである。こんなところに来てまで、どこにでもあるような氷菓を注文したりするなよと、顔で笑って心で泣いての心境だ。めったに行けない店にいる喜びがぶち壊されたようで、むらむらと怒りもわいてきた。わかるなあ、この気持ち。最近はスターバックスの川床もできているそうだから、もはや若い人にこの句の真意は伝わらないかもしれない。でもねえ、せっかくの川床で、アメリカンなんてのは、どうなのかなあ。なお余談だが、作者は詩人北村太郎(本名・松村文雄)の実弟。一卵性双生児だった。『雪間以後』(2003)所収。(清水哲男)

{違ったかな}「氷金時」を注文したのは、連れて行った子どもだったのかもしれませんね。そのほうが素直な解釈に思えてきました。うーむ。


July 1572012

 雨つぶの雲より落つる燕子花

                           飴山 實

雨時の草花は、生き生きしています。水をたっぷり吸って、葉も花びらも雨に洗われて新鮮です。傘をさして歩くことが多くなるのでうつむきがちになりますが、燕子花(かきつばた)のような青紫色の花に出会うと、この季節にふさわしい色彩であると思い至ります。紫陽花もそうですが、青空が少ないこの季節には、青紫を希求する心情があるように思われます。梅雨時には青紫が似合います。「雨つぶの雲より落つる」は、雨つぶを単数ととらえるか、複数ととらえるかで趣きが変わります。複数ととらえると、雲にも雨の降る範囲にも広がりが出て、燕子花の数もにぎやかになります。しかし、ここは利休が朝顔一輪で秀吉を招いたわび茶にならって、雨は一粒、燕子花 は一輪と とらえます。すると、雨つぶの一滴が雲から垂れ落ちるその一瞬を、じっくり時間をかけて夢想することができます。その一粒が、青紫の花一輪にとどいています。「日本大歳時記・夏」(1982・講談社)所載。(小笠原高志)




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