缶詰めの缶に餌のミミズをいれて、ぼおっと魚釣りに行った記憶。(哲




2012ソスN7ソスソス22ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

July 2272012

 土用鰻店ぢゆう水を流しをり

                           阿波野青畝

余りは、うなぎの長さでしょうか。注文してから待たされる時間の長さもありましょうか。暑いから、うなぎを大量にさばくから、「水を流しをり」なのでしょう。「ぢゆう」を眺めていると、うなぎの形にみえてきます。この数日間、非常に切ない思いでいます。掲句をずっと考えているわけですが、うなぎが食いたい、今日はうなぎを食いに行こう、国分寺に鰻屋はあるだろうか、仕事で横須賀に行っても鰻屋を探す始末。ついには旧知の鰻屋のおかみさんにメールで、この、日本民族をこの時期に熱狂させる、この、うなぎの魅力と魔力は何なのだ?と問いかけましたが、一笑に付されました。なお、このおかみさんはなかなかの美人で、諏訪にある鰻屋の女将さんも美しく、中野の鰻屋の女将さんは、張りのある元、美少女です。うなぎを食っているから美女になるのか、鰻屋の主人は、美女を口説くのがうまいのか、たぶん、後者だと今気づきました。鰻を食っているから、アレですよ。ところで、私は、過去五年間で、五回、鰻屋で鰻を食っています。ちょうど、一年に一度。だから、この一期一会が強く記憶に残ります。その匂い、白いご飯と、赤茶けたタレ、それに染まった焦げてふんわりした身のふくよかに、あぶらのしるがじんわり口中に広がりとどきます。世界中で収穫される鰻の八割が、日本人の胃袋に収まるそうです。この時期、無性に食べたくなる日本のハレの食文化、土用の丑の伝統を作った平賀源内は天才です。そして、もう一人の天才、赤塚不二夫は、ある日、犬のキャラクターを考えていたときに、当時の少年マガジンの編集者が「ああ、、今日は土用、、鰻が食いたいーー」と言った声を聞いて、名作「ウナギイヌ」を創作したのでした。「日本大歳時記・夏」(1982講談社)所載。(小笠原高志)


July 2172012

 虹飛んで来たるかといふ合歓の花

                           細見綾子

者はこう書いている。「私は女であるためか、合歓を見ても美人などは連想しない。夢とか、虹とか、そんなものを思い浮かべる。合歓は明るくて、暗い雨の日でも灯るように咲く。合歓が咲くと、その場所が好きになるのだった」以前にも一句引いた句文集『武蔵野歳時記』(1996)は、何度読んでもしみじみ良い。読ませる、とか、巧みという文章ではないのだと思うが、正直で衒いのない書きぶりと、その感性に惹きつけられる。合歓の花を見る、微妙な色合いが美しいなと思う、ここまでは皆同じだが、たいてい、この美しさをどう詠もう、と考えて、そこに美人が出てきたりするわけだが、この作者は即座に、まるで虹が飛んできたようだわ、と思ってそれがぱっと句になる。そして読者は、合歓の花の優しい色合いと、それが咲いていた彼の地を静かに思い出すのだ。(今井肖子)


July 2072012

 凍死体運ぶ力もなくなりぬ

                           原田 喬

んざりするほど暑い日が続くと、句集を開くときでさえ、わずかな涼感を求めるようにページを繰る。不思議なことにそんなときには吹雪や凩の句ではなく、やはり夏季の俳句に心を惹かれる。遠く離れた冬ではあまりにも現実から離れすぎてしまうためかもしれない。掲句には奥深くを探る指先にじわりとしみるような涼を感じた。人間が直立二足歩行を選択してから、踵は身体の重さを常に受け止める場所となった。細かい砂にじわじわと踵が沈む感触は、地球の一番やわらかい場所に身体を乗せているような心地になる。あるいは、波打際に立ったときの足裏の、砂と一緒に海へと運ばれてしまうようなくすぐったいような悲しいような奇妙な感触を思い出す。暑さのなかに感じる涼しさとは、どこか心細さにつながっているような気がする。〈ひらくたび翼涼しくなりにけり 前書:田中裕明全句集刊行〉〈この星のまはること滝落つること〉『巣箱』(2012)所収。(土肥あき子)




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