オリンピックが始まりましたね。「五輪熱中症」にもご用心。(哲




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July 2972012

 橋おちて人岸にあり夏の月

                           炭 太祇

太祇(たんたいぎ)は江戸に育ちました。四十歳を過ぎて京都に上り、島原の遊郭内に不夜庵を結び、晩年は、しばしば蕪村と交わっています。梅雨出水(つゆでみず)で落ちた橋を、百メートル以上のスケールとして読んでみると、物見高い見物衆も、祭りや花火に集うようなそぞろ歩きです。橋が落ちた自然災害を深刻にとらえず、夕涼み恰好の風物にしてしまうところに、江戸時代の浮世を感じます。大雨の後の空は澄み切って、月は皓皓と涼しげです。この時代、物は簡 単に壊れるものでした。というよりも、壊れうるものだという覚悟がありました。それは、人力で組み立てた木橋には、しょせん、大水にはかなわない諦めがあったからでしょう。奈良時代、すでに無常を「飛鳥川の淵瀬」にたとえています。それが、平安末期、鴨長明になると「ゆく川の流れは絶えずしてしかも元の水にあらず」(方丈記)となり、江戸の掲句では「人岸にあり」という集団描写になって、無常を見物にしてしまっています。「日本大歳時記・夏」(1982・講談社)所載。(小笠原高志)


July 2872012

 炎天のふり返りたる子どもかな

                           藤本美和子

天の句でありながら不思議と、ぎらぎらと暑くてどうしようもないという感覚よりも、ふり返ったその子の背景にいつか見た青空と雲の峰が広がってくるような、なつかしさ感じさせる。切り取られた一瞬から遠い風景が思い起こされるのは、炎天の、の軽い切れのためか、ふり返る、という言葉のためか、夏という季節そのもののせいなのか。同じ作者に〈炎天のかげりきたれる辻回し〉という祇園祭を詠んだ句もあり、こちらはまさに酷熱の日中の空、昨年訪れた祇園祭の熱気と活気を思い出させる。いずれの句にも、確かな視線から生まれた饒舌でない投げかけが、余韻となってじんわりと広がってくるのを感じる。『藤本美和子句集』(2012)所収。(今井肖子)


July 2772012

 草の中滑走路は取り返しがつかない

                           上月 章

が自然で滑走路が文明というふうに対比させ、対峙させると草は良い役で滑走路が悪役という図式になるのか。いつも自然は文明に蹂躙されるということか、そんな簡単な句なのか。どうもちょっと違うような気がする。制空権を取るために、また日本本土爆撃を可能にするためにサイパン島は死闘の島となった。この島を獲るのは滑走路をつくって日本を爆撃するためだ。東京大空襲の爆撃機はこの島の滑走路から飛び立ったのだった。そんな戦略としての「取り返しのつかなさ」の方が現実感をもって読める。滑走路を原発に換えて考えたらというような読みに僕は価値を置かない。『感性時代の俳句塾』(1988)所載。(今井 聖)




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