August 072012
耳二枚海が一枚秋立ちぬ
掛井広通
本日立秋。もっとも違和感ある二十四節気だが、ここが暑さの峠と思い、長い長い下り坂の末に本物の秋がうずくまっていると考えることにしている。掲句は海を一枚と数えることに涼味を覚えた。はたして実際はどうなのだろうか。深さは「尋」、距離は「海里」だが、「七つの海」という慣用句があることから単にひとつ、ふたつなのだろうか。しかし、やはり一枚がいい。太平洋が一枚、地中海が一枚。どれもはるばると波立っているはてしなく大きな一枚の布のようだ。そして耳と海が並べばおのずとジャン・コクトーの「耳」〈わたしの耳は貝の殻 海の響きを懐かしむ〉を思わずにいられない。人間の身体の端っこに頼りなく付く二枚の耳が、いち早く秋を聞き分ける。〈砂浜は地球の素肌星涼し〉〈足跡はうしろに出来て鳥雲に〉『さみしき水』(2012)所収。(土肥あき子)
August 062012
髪洗ふ背骨だいじと思ひけり
長戸幸江
年齢を重ねてくると、いつしか嫌でも自分の身体の劣化に気づくようになる。昔の人は、劣化はまず「歯」にあらわれ、次に「目」にくると言った。私もその順番だった。そうなってくると、まだ現象としてあらわれてはいなくても、身体のあちこちの部位が心配になってくる。このときの句の作者の年齢は知らないが、髪を洗っているときに、うつむき加減の身体を支えている「背骨」の大切さを、身にしみて理解している。若いときには、思いもしなかった身体観が出てきたのだ。そしてだんだんこうした認識は、多くの立ち居振る舞いごとに浮かんでくるようになる。それが老人の性(さが)なのであり、仕方のないことだけれども、こうしてそのことを句として掲げられてみると、あらためて自分の身体にそくして同感している自分に気がつかされる。そしてこの認識は、次のような句にもごく自然に及んでいくのだ。「夏野原少女腕を太くせよ」。『水の町』(2012)所収。(清水哲男)
August 052012
朝焼の雲海尾根を溢れ落つ
石橋辰之助
山頂、または山小屋、テント場で迎えた朝。眼下の雲海は、朝焼けに照らされながら、ゆっくりと尾根から、あふれるように下界に落ちていきます。句のモチーフは、光と雲と岩のみで、人も生き物も読みこまれていません。生命が誕生する前からある、太陽と地球との無言の挨拶。そこには「おはよう」という言葉もありません。しかし、滝のように尾根から谷へと流れ込む雲海の動きをみていると、地球そのものが生きているように思えてきます。私は高校時代、山岳部だったので、大雪、知床、南アルプスなどを縦走しましたが、ここ近年は下界の塵芥の住人に甘んじています。掲句のような荘厳で雄大な句を目にすると、久しぶりに重い腰を上げて、リュックサックを背負ってみようか、という気持ちになります。「鑑賞俳句歳時記・夏」(1997・文芸春秋)所載。(小笠原高志)
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