長崎に投下の原爆がいまの原発につながっている。最近知った。(哲




2012ソスN8ソスソス9ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 0982012

 フクシマで良いのか原爆忌が近い

                           山崎十生

和二十年八月六日広島、八月九日長崎へ原子爆弾が投下された。広島市をヒロシマと表記するのは被爆都市としての広島を表すときで、原水爆禁止運動の中で使われたのが最初のようだ。広島には原爆投下で亡くなった親族、被爆手帳を携えて生きた義父の墓がある。余り多くを語らなかった義父にとって原爆の日が来るたびあの日の惨状を思い出すことは辛かったと思う。福島第一原子力発電所の事故から一年余り、早々と安全宣言をだし大飯原子力発電所の再稼働を決めた国の施策に疑問を感じる。もちろんアメリカ軍によって投下された原爆と今回の原子力の事故を同列に扱うわけにはいかないが、「今回の事故による放射能の直接的影響で亡くなった人は一人もいない」と言ってのける電力会社は原子力という怪物を管理している自覚があるのか。あまりにも無神経な発言に怒りを覚える。掲句では「(ヒロシマやナガサキ同様に)フクシマという表記を使っていいのか」と迷いつつ原爆忌を迎える作者の心の動きが書き留められている。被曝地域の声をなおざりに原子力政策を進める国、じゃあ自分は「フクシマ」とどう向き合うのか、作者のとまどいはそのまま自分に返ってくる。『悠々自適入門』(2012)所収。(三宅やよい)


August 0882012

 死んだ子の年をかぞふる螢かな

                           渋沢秀雄

の頃からふわふわ飛びはじめる螢、その火は誰が見ても妖しく頼りなくて儚い。あの子が今生きていればいくつ……と、螢にかぎらず、何かにつけて想うのが親心というものだろう。殊に儚い火をともして飛ぶ螢を、無心に追いかける子どもたちを見るにつけ、子を亡くした親は「あの子が生きていれば……」としみじみと思いめぐらしてしまうに違いない。私には生まれてすぐに亡くなった姉がいたようだが、親は折々にその年を数えてみたりしていたのかもしれない。私などが子どもの頃に歌って螢を追った「ほ、ほ、螢こい、そっちの水は苦いぞ、こっちの水は甘いぞ……」という文句も、どこかしら哀しく寂しい響きをもっていた。掲句は二十四歳で失った次男のことを詠んだもの。親にとっては幾つになっても子は子である。秀雄は各界の面々が寄った句会「いとう会」の古参メンバーだった。俳号は「澁亭(しぶてい)」。澁澤榮一の四男だった。秀雄の代表句には「横町に横町のあり秋の風」があり、他に「ででむしや長生きだけが芸のうち」がある。『澁澤澁亭』(1984)所収。(八木忠栄)


August 0782012

 耳二枚海が一枚秋立ちぬ

                           掛井広通

日立秋。もっとも違和感ある二十四節気だが、ここが暑さの峠と思い、長い長い下り坂の末に本物の秋がうずくまっていると考えることにしている。掲句は海を一枚と数えることに涼味を覚えた。はたして実際はどうなのだろうか。深さは「尋」、距離は「海里」だが、「七つの海」という慣用句があることから単にひとつ、ふたつなのだろうか。しかし、やはり一枚がいい。太平洋が一枚、地中海が一枚。どれもはるばると波立っているはてしなく大きな一枚の布のようだ。そして耳と海が並べばおのずとジャン・コクトーの「耳」〈わたしの耳は貝の殻 海の響きを懐かしむ〉を思わずにいられない。人間の身体の端っこに頼りなく付く二枚の耳が、いち早く秋を聞き分ける。〈砂浜は地球の素肌星涼し〉〈足跡はうしろに出来て鳥雲に〉『さみしき水』(2012)所収。(土肥あき子)




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