August 262012
かなかなや川原に一人釣りのこる
瀧井孝作
蜩(ひぐらし)、かなかなの鳴き声は、金属音のように響きます。夏の終わりの夕刻の空に向かって、楽器の音色とは違った、ぜんまい仕掛けのようなメカニックな音を響き渡らせます。作者は、終日、釣りつづけていたのでしょう。「川原」と表現しているので、中流か下流の広い川原で、鮎でも釣っていたのでしょうか。気づくと、さっきまで点在していた釣り人が、誰一人としていなくなっている。自分だけがとり残されてしまった。豊漁ならばさっさと竿をたためるが、たぶん、釣果はかんばしくなく、竿をたたむにたためず、日が暮れかかるや空にかなかなが響き渡って、我に返った図。その金属的な鳴き声は、川原の石にも響き渡るようで、空っぽのびくが寂しい。小 学校のと きの居残りの気分に似て、大人の居残りとはこんな感じでしょうか。あるいは、夏休みも終わりに近づいて、まだ宿題がたくさん残っているような、そんな屈託でしょうか。夕刻の空に川原に広がるかなかなの鳴き声を、自嘲ぎみに聞いているところが大人です。「日本大歳時記・秋」(1981・講談社)所載。(小笠原高志)
August 252012
蜩やどこにも行けぬ観覧車
輿梠 隆
一周して戻ってくるだけの乗り物、観覧車。同じ一周でも縦に回ると、空に近づいて戻って来る分、結局どこにも行けない、という気分になるのだろうか。ただ、蜩のかなかなかなという音色は、観覧車にまとわりつく感傷よりくっきりとして、淋しい。そう思うと、ただそこで回るばかりの観覧車自身がどこにも行けないなのか、という気がしてくる。先日横浜で水上バスから見た、意外にうすっぺらいその横顔?を思い出しながら、今日もあちこちでただただゆっくり動いている大小さまざまな観覧車を思い浮かべている。『背番号』(2011)所収。(今井肖子)
August 242012
蠅の舌強くしてわが牛乳を舐む
山口誓子
ああ、やっぱり誓子だなあ。誓子作品についてよく言われる即物非情の非情とは、これまで「もの」が負ってきたロマンを一度元に戻すことだ。蝶は美しい。蛾は汚い。黒揚羽は不吉。ぼうふらは汚い。蠅は汚い。みんな一度リセットできるか。それが写生ということだと誓子は言っている。子規が言い出して茂吉もそう実践している。生きとし生けるものすべてに優しさをとかそんなことじゃない。「もの」をまだ名付けられる前の姿に戻してまっさらな目でみられるか。この「強くして」がいいなあ。「生」そのものだ。『戦後俳句論争史』(1968)所載。(今井 聖)
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