かつてのラジオ仲間と隔月定例飲み会。二八会と、不景気な名前。(哲




2012ソスN8ソスソス28ソスソスソスソス句(前日までの二句を含む)

August 2882012

 八月のしばらく飛んでない箒

                           森田智子

ょうど今頃の空を「ゆきあいの空」と呼ぶという。広辞苑によると「夏秋の暑気・涼気の行き合う空」と出ている。古今和歌集に〈夏と秋と行きかふ空のかよひ路はかたへすずしき風や吹くらむ〉があり、残暑と秋が幾層にも混じり合った空気が感じられる。4月30日から5月1日にかけて、魔女たちが集まるといわれるワルプルギスの夜も、北欧の長い冬から夏への変わり目を祝うものだ。作者はいつものように庭箒を使いながら、どことなく使い心地の違う箒に、魔女の笑いを浮かべて、八月のおそらく美しい夕焼けの空を見あげている。民間伝承によると、魔女が空を飛ぶ道具として箒のほかにも熊手、シャベルなど、いずれも柄のついたものにまたがる図もあるというが、もっともシルエットが美しく、スピード感が出る箒が定着したのだといわれている。それにしても、ドラキュラが小さな蝙蝠となってこそこそ飛ぶ姿と比べ、箒でゆうゆうと滑空する魔女たちのなんと堂々としたものか。今夜あたり、飛びたい箒たちがあちらこちらでうずうずとしているのかもしれない。〈台風の一夜をともに鳥獣〉〈飛行機の中の空気や天高し〉『定景』(2012)所収。(土肥あき子)


August 2782012

 人人よ旱つづきの屋根屋根よ

                           池田澄子

いかわらずの旱(ひでり)つづきで、げんなりしている。冷房無しのせいあるが、団扇片手に昼寝をきめこんでもあまり眠れず、なんだか「ただ生きているだけ」みたいな感じだ。この句は、みんながまだ冷房の恩恵に浴していなかった昔の情景を思い起こさせる。小津安二郎が好んで描いた東京の住宅街は、まさにこんなふうであった。ビルもそんなにはなく、「屋根屋根」は平屋か二階建ての瓦屋根だ。それらが夏の日差しのなかにあると、嫌でも脂ぎったような発色となり、ますます暑い気分が高じてくる。白昼ともなれば、往来には人の影もまばらだ。「人人」はいったいどうしているのかと、ついそんなことが気になってしまうのだった。それでもどこの「家家」の窓も開いているから、ときおりどこからかラジオの音が流れてきたりする。ああ「人人」は健在だなと、ほっとしたりしたのも懐かしい。『たましいの話』(2005)所収。(清水哲男)


August 2682012

 かなかなや川原に一人釣りのこる

                           瀧井孝作

(ひぐらし)、かなかなの鳴き声は、金属音のように響きます。夏の終わりの夕刻の空に向かって、楽器の音色とは違った、ぜんまい仕掛けのようなメカニックな音を響き渡らせます。作者は、終日、釣りつづけていたのでしょう。「川原」と表現しているので、中流か下流の広い川原で、鮎でも釣っていたのでしょうか。気づくと、さっきまで点在していた釣り人が、誰一人としていなくなっている。自分だけがとり残されてしまった。豊漁ならばさっさと竿をたためるが、たぶん、釣果はかんばしくなく、竿をたたむにたためず、日が暮れかかるや空にかなかなが響き渡って、我に返った図。その金属的な鳴き声は、川原の石にも響き渡るようで、空っぽのびくが寂しい。小 学校のと きの居残りの気分に似て、大人の居残りとはこんな感じでしょうか。あるいは、夏休みも終わりに近づいて、まだ宿題がたくさん残っているような、そんな屈託でしょうか。夕刻の空に川原に広がるかなかなの鳴き声を、自嘲ぎみに聞いているところが大人です。「日本大歳時記・秋」(1981・講談社)所載。(小笠原高志)




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